2008/03/24

廃物

 日曜日、一日中寝ていた。背中がだるくて、すこし熱っぽかった。
 ずっと寝ていたら、すっきりした。
 全力で休まないと、気力と体力が戻らないからだになってしまった。
 ひとつのテーマを追うことが、しんどくなっている。昔は努力なんかしなくても、追いかけ続けることができた。本を読みはじめたら止まらなくなり、仕事が手につかなくなった。
 今はわざと自分を追い込まないと、そんなふうにはならない。

『現代作家論』の「作家論について」で中村光夫は、「孫みたいな作家の書いた小説にまともにぶつかる情熱は誰にでも与えられる天分ではないし、時代のジャーナリズムに興味を失った批評家とは、自分の存在理由を否定した廃物にすぎないのです」と愚痴をこぼしている。

 ここのところずっと持続の問題のことを考えていた。
 日々の暮らし、あるいは仕事は、効率よくやっていくと楽なのだが、それだけではだめだろうなとおもう。
 面倒くさいこと、ややこしいこと、自分の中ではっきりとした答えの出ないものに取り組んでいかないと力がつかない。
 暇ができたら、といっているうちに、時間はすぎてしまう。

 ところで、『現代作家論』の翌年に出た『文學の回帰』(筑摩書房、一九五九年刊)の「ふたたび政治小説を」の出だしは、こんな文章からはじまる。

《文藝評論はこのごろ書きにくくなりました。僕が小説を頭から眞にうける年齢を少しすぎてしまったせいかも知れませんが、それだけはありません》

 中村光夫によれば、マスコミの発達によって、作家は読者に仕える奴隷になった。読者からの作家を高める声も聞こえなくなった。
 中村光夫は「文學者はいても文學はない時代」だと指摘する。
 そして現代作家は、ほんとうは書きたいことがないのに、注文があるから無理して書いている、自分のテーマを追求している作家は例外だという。

《今日さかんに仕事をしている作家に、文學を信じているかと問いかけたら、まともに返事する人はほとんどいないでしょう。こんな質問が愚問に聞こえるのが現代です》(「ふたたび政治小説を」/『文學への回帰』筑摩書房、一九五九年刊)

 わたしはというと、文学を信じていた、と過去形にしてしまいたくはないが、「頭から眞にうける年齢」ではなくなりつつある。
 もう小説を読んだくらいでは、人生観が変わったりはしない。とはいえ、自分の考え方は、これまで読んできた文学からものすごく影響を受けているのも事実である。
 適当なところで世の中と折り合って、毎日楽しく暮らしていけたら、それでいいんじゃないかとおもう。
 楽しく暮らしていても、からだや心が弱ることもあるわけで、そんなときだけ文学の力を借りている。
 小説やエッセイや漫画を読んで「頭から眞にうける」ことはすくなくなったが、それでもときどき、後頭部のあたりがピリピリしびれたりすることがある。詩を読んだり、音楽を聴いたりしていて、ぞくぞくすることもある。

 こういうのは琴線にふれるというのかな。でも、気まぐれだからな、琴線は。

 ここまで書いて、時計を見たら朝五時。資源ゴミを出しに行くと、雨が降っていた。道で百円玉を拾い、そのままセブンイレブンに行ったら、おむすび百円のフェア中だった。おなかが空いていたわけではないが、直巻きおむすびの鮭いくらを買った。