先日、疲れていたのは、からだの調子があんまりよくないのに飲みすぎたせいだ。胸の右側が痛くなる。心臓は左だから大丈夫かな、とおもうが、ちょっと心配だ。
土曜日、神保町のヒナタ屋で開催した石田千さんと『彷書月刊』の田村治芳さんのトークショーに行って、ひさしぶりに元書肆アクセスの畠中理恵子さんに会い、いきなり「ごめんなさいね」と謝られてしまったのだが、畠中さんにはお世話になりっぱなしで、なんで謝まるのかまったくわからなかった。
先日、自称「古本労働者」のTさんが「俺は、三日酒を飲まなかったからアル中ではない」といっていた。それで三日くらいわたしもやめてみようかなとおもっていたのだが、その決意は十六時間しか続かなかった。Tさんとは「仕事中に酒を飲むようになったら危ない」という意見で一致した。
家で仕事しているから、いつでも飲もうとおもえば、飲める。ウィスキーをちびちびなめるくらいなら、大丈夫だろうとおもって書くと、酔っぱらって、やたら文章がくどくなり、あとで読み返すとめちゃくちゃだったりするので、お金をもらっている原稿を書くときは飲まないように気をつけている。
いつもはうちでも外でもサントリーの角の水割を飲む。でも今、家になぜかジョニ黒がある。買ったおぼえがないから、誰かのお土産(※)だとおもうが、もしかしたらこの酒はかなりうまいかもしれない。でも「オレが好きなのは角だ」と自分にいい聞かせる。
自分の好きな酒をけなされると腹が立つのはなぜだろう。大昔の話だが、「角が好きだ」といったら、「あんな酒、よく飲めるねえ」みたいなことをいわれて、大喧嘩をしてしまったことがある。ただの好みだろ。好みでいえば、わたしもビールが飲めない。だからといって、ビールを飲む人に「あんな酒」とはいわない。こんなことは当たり前だとおもっていたが、案外そうじゃない人が多くてときどきビックリする。
すこし前に、神田伯剌西爾の竹内さんに、わたしは家でインスタントコーヒーをアイスコーヒーにして(約一リットル)、冷蔵庫に常備しているという話をした。すると竹内さんは、「インスタントはフリーズドライなんたらで作っているから、おいしいんですよ」といって、さらにインスタントコーヒーをうまくする方法を教えてくれた。
ちょっと濃い目に作って氷をぶちこんで、すぐ冷やすといいそうだ。
鮎川信夫は、酒が飲めず、コカコーラを飲んでいたと、昔、新宿ゴールデン街のナベサンで教えてもらった。わたしはコカコーラが飲めない。
それはともかく、好きな作家よりも好きな詩人がけなされると、カチンとくる。自分のことをけなされるよりも腹が立つ。なんなんだろうね、この心理は。
意味もなくだらだらと書いているのは、酔っぱらいながら中村光夫の『文學の回帰』の中の武田泰淳の『森と湖のまつり』について論評を読んでいたら、こんな文章があって、考えこんでしまったのだ。
《氏の小説は、ほめるわけには行かないし、しかも言いたいことは澤山あるので、自然惡口を並べることになるのですが、世間には惡口さえ言いたくない小説がたくさんあります》(「森と湖のまつり」)
中村光夫は一九一一年二月五日、武田泰淳は一九一二年二月十二日生まれで、一つちがい。ほぼ同世代の人間である。わたしは『森と湖のまつり』は、傑作だとおもっているのだが、今、行方不明になっている。たぶん文庫を二冊持っているはずなのだが、見当たらない。
「この小説で、作者が本當に額に汗してとりくんでいる問題はただひとつしかないので、それは藝術家の現代社會における存在理由です」という批評は、わたしも同感だ。
しかし中村光夫は「私小説の直接の延長の上」で書かれたことが気にくわない。
《この「藝術家」を主人公とした小説に、作者の制作の生理が少しも告白されていなかったら、すべては空しい假面にすぎません》
それゆえ、この作品を「傑作」のように騒ぐのは日本の文学あるいは作者の才能にたいする「侮辱」であり、このていどで「いい氣になられては困る」という。そして中村光夫の次の言葉にくらっときた。
《僕は利口すぎる人間は自信がないという俗説は信じません。自信を持たない、少なくとも持とうと本氣で努力しない人間の利口さにはどこか缺けたところがあるのです。自信のないことを、自分が利口な證拠と思っている人間の自己満足くらい不潔なものはありません》
自信とは「自分が何をしているかはっきり知ること」だという。
わたしは酔っぱらいながら、自分が何をしているか知ろうとした。
酒を飲みながら、文章を書いている。こんなことをやっていてはいけないとおもった。
(※)某酒乱が我が家で暴れたおわびに置いていったようだ。