すこし前に『街の哲学』(青年書房、一九四〇年刊)を再読していたのだが、この本の中に「鮒を釣る卓」という随筆がある。
《エネルギーが減退し、読書執筆がスロー・モーシヨンになつて来た今日このごろではわたしには何といつても時間が大切だ》
新居格は一八八八年生まれだから、この文章を書いたのは五十歳くらいのときである。わたしは今年四十八歳になるのだが、そういう状態になりつつある。まちがいなく、本を読むのが遅くなった。
《疲れたら午睡し、憩ひをとつてまたぽつぽつと初める。そののろい仕事振は能率的ではないが、魚釣と同じで楽しいものだ》
《鮒つりをしてゐるのと、同じ気持でわたしは毎日机に向かつてゐるのだ。魚が釣れる釣れぬが魚釣人には問題ではないやうに、原稿がかけるとかかけぬとか、本が十分に読めるとか読めないとかが問題ではないのである》
二十代のときに文章が書けなくなってしまった時期のことをふりかえると、わたしは自分の技量以上に巧く書かなければ……とおもいこんでいた。
話は変わるが、今、毎日ベースの練習している。昔、できたことができない。自分のおもうように指が動いてくれない。二十代のころのわたしは速く正確に弾くことが、いい演奏だとおもっていた。それで挫折した。いや、挫折したといえるほど、本気でやっていなかった。
でも今は、たどたどしくてもいいから、一音一音、心を込めて弾きたいとおもっている。
楽器だけでなく、文章を書くときもそうありたい。指先に気持をのせて書く。久しく忘れていた感覚だ。弾けないベースの練習をしているうちに、その感覚をすこしだけおもいだした。
この心境の変化を忘れないようにしたい。
……続く。