新居格の著作の序文やあとがきはいつも同じようなことを書いている。よくよく考えてみると、ちょっと変だ。
新居格著『市井人の哲學』(清流社、一九四七年刊)の「自序」ではこう綴っている。
《本書にはこれといつた特色はない。それは誰よりも著者であるわたし自身が知つてゐる。わたし自身が特色がないのに特色があるものが書けるわけはないし、わたしとしてもさうした特色を欲してはゐないのだ。わたしはただわたしの思ふところを率直に書いただけの話だ。それはわたしの生活そのままの表現であり、わたしの日常の言葉通りのものである》
余所行きの言葉ではなく、普段通りの自分の言葉で文章を書く。新居格はそう心掛けていた。
いつも自分が考えていること、考えてきたことを書く。これがけっこうむずかしい。「こんなことをわざわざ書く必要があるのだろうか」という気持になって書けなくなる。「特色のあるものを書こう」とおもうことはわるくない。しかし特色のある手法が使い古された手法だったり、特色を出そうとしすぎて伝わらなくなったりすることもよくある。
それに自分の「当たり前」は誰にとっても「当たり前」とは限らない。
変に奇をてらったり、難しい技巧を駆使したりしなくても、凡事徹底していけば、自ずとその人ならではの味が出てくる……こともある。自分の「当たり前」を表現しきるのは意外とむずかしいものだ。そういうことは若いころにはわからなかった。
四十代後半になって、できなくなったことが増えた。何か新しいことをはじめるにしても十代や二十代ではじめた人と同じようにはいかない。ただ、若いころよりもペース配分や続けるための工夫みたいなものはできるようになった。
すぐには上達しないけど、その分、時間をかけて、地道にやり続けていくうちに、いつの間にかできなかったことができるようになっている。そういうことはよくある。
(……続く)