2017/04/11

春に考える(二)

 眼高手低という言葉がある。目は肥えているけど、いざ自分でやってみると、おもうようにできない、知識に技術(技能)が追いつかない——そういう状態を意味する。

 二十代のころ、本ばかり読んでいて、文章が書けない時期があった。
 自分の考えているようなことは、誰かがすでに書いている。わざわざ自分が書く必要はない。
 そうおもうこと自体、すでにいろいろな人が書いている。

 今の時代は情報量が格段に増えているから、昔と比べて、眼高手低になりやすい。「ひょっとしたら、自分には才能があるかもしれない」という初心者の勘違いはすぐに打ち消される。
 まわりにも巧い人がいくらでもいる。「わざわざ自分が……」とおもってしまう。

 どんなに情報量が多くても、自分の可能性を測ることはできない。今、できないことが、三ヵ月後、一年後にはできるようになっている(かもしれない)。できるようになってからではないとわからないことはいくらでもある。
 技術・技量のレベルに応じて、理想や目標も変わってくる。

 新居格が自分の随筆を「私だけに意味する随筆であるかも知れない」と書いていることに、わたしはすごく励まされた。

 文章を書く以上、「おもしろかった」「読んでよかった」とおもってほしい。でもそれだけではない。
 書きたいものを書くためには、何度も書き損じる経験を積まないといけない。

 たぶん料理にしても、レシピを見て、そのまま再現できるようになるには、それなりに時間がかかる。一度くらいうまくできても、次も同じようにできるとは限らない。微妙な火加減や塩加減は失敗を通して学ぶしかない。

 この文章にしても、ぼんやりとした着地点はあるのだが、そこにたどりつけるかどうかはわからない。