2017/04/15

春に考える(七)

『生活の錆』の「春の淡彩」の「そうした因襲的な言葉による阻止ほど甚だしいものはない」という文章のすぐ後で、新居格は語調を強め、こう綴っている。

《そんなことをいひたがるものこそ文明の敵であり、人類の敵である》

 四十代半ばで、新居格が水泳とダンスをはじめたとき、まわりから「いゝ年して」みたいなことをいわれたんでしょうねえ、たぶん。

 昔の話だが、わたしは小学六年生のとき、生まれてはじめてクラスの学芸会のための演劇の脚本を書いた。脚本の書き方も何もしらないまま、白地のお絵書き帳に四十枚くらい書いた。

 出来不出来はさておき、自分の中に一晩で四十枚も文章を書ける力があるとわかったことが嬉しかった。その力は自分だけにしか意味がない。だが、もしこんなことができたって何の意味もないとおもっていたら、わたしはまったく別の人生を送ることになったにちがいない。

 好きこそものの上手なれというが、そう簡単には好きなだけでは続かない。
 新しいことをはじめる。興味や好奇心の芽は、慎重に育てないとすぐ枯れてしまう。おもうようにならなくて嫌になることもあれば、のめりこみすぎて燃え尽きてしまうこともあれば、「つまらない」とか「ヘタクソ」とか何とかいわれて、やる気をなくしてしまうこともある。

 最初のうちは、うまくいかないのは当たり前とおもって、気長にやるしかない。イメージとしてはトロ火でコトコト煮込んでいくかんじが理想だ。

 ちなみに、今のわたしは一晩に四十枚の文章を書く力は失われて久しい。

(……続く)