この一ヵ月くらいのあいだ、あれこれ考えていたこと、自分の心境の変化を書き残しておきたい——そうおもいつつ、「それって何の意味があるの?」という抵抗感がある。
「私の随筆は云はば私だけに意味する随筆であるかも知れない」と綴った新居格もそんなおもいにとらわれていたのではないか。そんな気がしてしかたがない。
新居格の『生活の錆』(岡倉書房、一九三三年刊)に「春の淡彩」という随筆がある。
四十代半ばの新居格は水泳とダンスをはじめる。
《わたしの水泳もダンスも水泳として、またダンスとしての上達を期待するのではない》
《年を重ねるのは仕方がないが、心に年齢の皺を寄せてはならない。
いゝ年をしてだとか、頭が禿げてゐるのだとか、白髪が出来てるのにだとか文化の発展と人間の成長性を妨げること、さうした因襲的な言葉による阻止ほど甚だしいものはない》
《わたしが近年ひどくぢゞむさくなつたのはさうした言葉に打ち負かされてゐたからと気付き、こゝに断然と挑戦をはじめようとするわけである》
今、わたしは毎日家でベースの練習をしている。
ものおぼえがわるく、忘れるのが早い。二十代のころなら二、三日練習すればできたことが、今は二〜三週間かかる。しかも一日か二日、何もしないとリセットされてしまう。技術がどうこう以前に、モチベーションを保つのがむずかしい。
それでもうまくできなくて、なかなか弾けなかったベースラインが弾けるようになると嬉しい。
なんというか、野球をはじめたばかりの子どもが、ファウルだろうが、凡ゴロだろうが、ボールがバットに当たっただけで嬉しいという感覚と近いかもしれない。凡打しか打てないからダメとおもうか、もっと練習しようとおもうか。たぶん、そこが大きな分かれ道になる。
できないことの中に小さな進歩の喜びを見出し、その喜びを糧にしてやり続ける。やり続けながら、また次の小さな進歩を目指す。そんなふうに楽器を弾き続けたいとおもっているわけだが、どうなることやら。
(……まだ続く)