新居格の『心のひゞき』(道統社、一九四二年刊)に「春に考へる」というエッセイがあって、自分もこの題名で何か書いてみたいとおもっていた。
この本の「自序」でも、あいかわらず、新居格は、自分に才能がない、学浅く、見聞狭く、生活の振幅がひろくない……云々とぼやいている。
《たゞ、わたしはありつたけの自分で書いてゐる》
《この書は表題の示す通り、平人であるわたしの心のひゞきなのである》
ありったけの自分の心の響きを書く。それは新居格の理想だったのではないかとおもう。本を読むかぎり、文章はかなり抑制が効いている。たぶん、性格も。
前回、「たどたどしくてもいいから、一音一音、心を込めて弾きたい」と書いた。素人同然の技術しかない癖に何をいっているのだ——と自分でもそうおもうわけだが、巧くなる過程で失ってしまうものがあるのではないか。今のわたしはそのことを考えたいのだ。
文章の場合、間違えても後でいくらでも書き直すことができる。楽器の生演奏だとそういうわけにはいかない。ミスをする。動揺する。あとはぐだぐだになる。間違えたところから立て直すことができない。つまり、ヘタということだ。
ときどき人前で話をする機会がある。わたしの声は小さくてかすれて聴こえにくい。たいてい途中でしどろもどろになる。正直にいうと、トークショーはやりたくない。やりたくないが、人前でもうすこし話ができるようになりたいともおもっている。
楽器と同様、人前で喋っているときも、しどろもどろになったあと、立て直す技術がない。
巧く弾く、巧く喋るよりも、今は失敗したときの心構えのほうが大事なのかもしれない。
(……続く)