暑さはすこし和らいできたが、湿度が高い。風の通りのよい道を選んで散歩していても汗だくになる。
九月十三日(土)、午後二時すぎ、西部古書会館。やや二日酔い。寝起きで頭が回らないのでゆっくり棚を見る。『絵図・地図が語る上福岡』(上福岡歴史民俗資料館、二〇〇〇年)、『羽村市郷土資料館紀要 第八号 特集 中里介山』(羽村市郷土資料館、一九九三年)、島遼伍『下野街道物語 大いなる栃木の街道をゆく』(下野新聞社、一九九九年)など。最近、西部古書会館、郷土史関係のいい冊子がよく出る。しかも安い(百円〜百五十円)。夜、妙正寺川沿いの道を歩く。
来月十月一日(水)から羽村市郷土博物館開館40周年記念事業「生誕140年 中里介山展」が開催される。介山は一八八五年、西多摩郡羽村(現・東京都羽村市)生まれ。当時、西多摩郡は神奈川県だった。昨年のちょうど今頃、玉川上水を調べていて、そのことを知った(文壇高円寺「玉川上水」二〇二四年十月二日参照)。羽村市は旧青梅街道、旧鎌倉街道も通っている。
生誕百四十年、武者小路実篤、北原白秋、野上弥生子も同年生まれ。
長編小説『大菩薩峠』は街道小説としても面白い。「鈴鹿山の巻」の巻もある。
十四日(日)、夜七時すぎ、新高円寺散歩。いなげやで惣菜を買い、ドトールでアイスコーヒー。青梅街道が見える窓際の席で『新編燈火頬杖 浅見淵随筆集』(藤田三男編、ウェッジ文庫、二〇〇八年)を読む。「井伏鱒二会見記」にこんな一文があった。
《井伏君が早稲田時代の恩師として敬愛しているのは吉田絃二郎氏と、それから辰野隆氏とである》
すこし前に再読した山本夏彦の本でも辰野隆の名を見た。若き日の辰野は斎藤緑雨を愛読して、渡仏前だか後だかに緑雨の著作集を求めた――というような話だった。辰野隆著『忘れ得ぬ人々』(講談社文芸文庫、一九九一年)所収の「上田万年と斎藤緑雨」という随筆に同じ話が出てくる。緑雨は伊勢国鈴鹿の生まれ。伊勢街道の神戸(かんべ)宿の出身でわたしの郷里の家もそれほど離れていない。神戸は城下町、寺社町でもある。
二十代半ば、山本夏彦に会ったとき、最初に「斎藤緑雨と同郷です」と自己紹介した。それがよかったのかどうか、その日はいろいろな話を聞かせてもらえた(辻潤や無想庵の話も聞けた)。
辰野隆の『忘れ得ぬ人々』には寺田寅彦に関する随筆が四篇収録している。同書は弘文堂書房、鬼怒書房、角川文庫など、いろいろな出版社から刊行されている。わたしは学生時代に文芸文庫版を新刊で買った。三十年以上前か。昔、買った本を読み返すたびに月日の流れの早さを感じる。
辰野の名前を知ったのは小林秀雄だったか中村光夫だったか。辰野は小林、中村の恩師でもある。年譜を見ると、辰野が早稲田で講師をしていたのは一年くらい(一九一九年)。そのころ井伏鱒二が学生だった。教育者としての辰野隆が日本の文学に与えた影響は計り知れない。
十五日(月・祝)、夕方五時起床、午後六時半、高円寺駅前から中通り、馬橋公園、公園から阿佐谷の神明宮に向かう斜めの道を散策する。日没早くなった。馬橋公園、犬の散歩をしている人が多い。途中、セブンイレブン阿佐谷北店がある五叉路のところで南に向かう。玉の湯(月・火が定休日)、阿佐谷弁天社のある細道——この道、風がよく通る。そこから阿佐谷けやき公園(屋上部)に行き、夜景を楽しむ。東京スカイツリーとドコモタワー、歌舞伎町タワーを見る。スカイツリーは中央線の線路と同じ方向(東)にある。
ちょっと気になっている渋谷方面の光るビルの名前はまだわからない。
阿佐ケ谷けやき公園は桃園川緑道もすぐ近くを通る。桃園川(暗渠)は天沼弁天池公園(荻窪)が水源のひとつといわれている。かつては阿佐谷弁天社も池だった。弁財天は水神である。ちなみにけやき公園はプールがあった(二〇一六年十一月に廃止)。わたしはこのプールで泳いだことはないが、屋上庭園ができてからはしょっちゅう寄り道している。行きはエレベーター、帰りは階段で降りる。階段の近くも絶景ポイントである。
高円寺・阿佐谷間は中央線のガード下を通るのが一番近い。ただし風が通らないせいか、ガード下はかなり蒸し暑い。すこし遠回りになるが、南口なら桃園川緑道、北口なら馬橋公園〜神明宮の道を歩きたい。目的地に早く着く必要はない。