今月の『本の雑誌』(二〇一五年一月号)は、マイケル・ルイス著『フラッシュ・ボーイズ』(文藝春秋)、ジョン・ウィリアムズ著『ストーナー』(作品社)をとりあげた。どちらも東江一紀訳です。
『ストーナー』はここ数年読んだ海外文学の中でもベストかもしれない。ベスト云々を語れるほど、海外の小説を読んでいないのだけど、『ストーナー』を読むと、まちがいなく小説でしか味わえないものがあるとあらためておもう。一九六〇年代に発表されたが、ほとんど売れず、しばらくアメリカでも忘れられていた作品らしい。
小説をあまり読まなくなったのは、小説を探す力が衰えてきたせいもある。切実に文学を読む気持が弱っている。『ストーナー』のような小説はしょっちゅう読みたい小説ではない。しょっちゅう読んでいたら身がもたない。そのくらい打ちのめされた。
貧しい農家の家に生まれ、苦学して大学に通い、そして文学に出あい、学問の喜びを知る。
しかし希望していた仕事についても、好きになった女性と結ばれても、子どもが生まれても「その先」がある。幸せになったかとおもうと、前途多難な境遇に陥る。一難去ってまた一難。夢や目標が実現すれば、ハッピーエンドになるわけではない。夢や目標をかなえるよりも、「その先」の生活を続けていくことのほうが、はるかにむずかしいのだ。
『ストーナー』は「その先」を一切省略しない。どの頁も読み飛ばすことができない。だから読んでいてヘトヘトになる。でも、そのあとに押し寄せてくる読書の充足感はこれまで味わったことのない快楽があった。
わたしが読みたかったのは「その先」の物語だったことに気づいた。
(追記)
その後、楡井浩一名義の本を担当していた飲み友だちの塚田さんに誘われ、東江一紀さんをしのぶ会に出席した(たぶん東江さんと面識のない参加者はわたしだけだったとおもう)。
病床でときどき意識が朦朧とした状態になりながらも『ストーナー』を丹念に訳していたという話を聞いた。