数日前から台所の室温が十度切るようになった。寝起き、からだが動かない。背中とおなかにカイロを貼り、葛根湯を飲み、ほうほうのていで活動している。この時期からカイロを二枚つかうのは、どうかとおもいつつも、つい温かさを求めてしまった。
人と喋ってなかったら電話で声が出なくなった。ちょっとまずい。毎年のことだが(自分比で)ふだんできることができなくなり、気分も滅入りがちになる。しかし毎年のことなので、なんとかなるだろうとおもうようにしている。
半病人のような状態で橋本治著『バカになったか、日本人』(集英社)を読んだ。
《経済成長を第一に考える人達は、「ペイしない地方のことなんかどうでもいいじゃないか」になってしまうし、都市に住んでそれほど生活に満足していない人達だって、「田舎に金をやるくらいなら、俺達をなんとかしろよ」と思う。既に東京への一極集中が顕著になっているのなら、「富を地方に分散する」もむずかしいでしょう。バブルの時代にそれはやったけれど、「地方」は再生しなかったし、今やそれをやる余分な金もない》
橋本治は『貧乏は正しい!』(小学館文庫、全五巻)のころからずっとこの問題について論じているのだが、ここ数年、地方が疲弊して、二進も三進もいかなくなったことで、かつてのようなよそ者の排除する空気も変わってきたのではないか。
すこし前に伊藤洋志×pha著『フルサトをつくる 帰れば食うに困らない場所を持つ暮らし方』(東京書籍)という本を読んだのだが、彼らはそのあたりの変化に言及している。経済以外の価値観で地方の再生にとりくんでいる。
《「経済とはマネーの交換だけじゃない、とにかく何かが交換されればそれは経済が生まれたと言ってもよいのではないか」ということだ。(中略)地域経済活性を「お金を落としてもらう」とか、そういう意識で捉えている人は、はっきり言ってズレている》(「仕事をつくる」——「頼みごと」をつくる/『フルサトをつくる』)
『バカになったか、日本人』では、原発についての発言も印象に残った。
《経済成長促進派は「それでも——」という簡単な接続詞一つで原発の再稼働を考えるし、なにも考えない人は、なにがあってもピンと来ない》(『バカになったか、日本人』)
橋本治は地方の経済や原発について、賛否を問う以前に、議論の仕方のおかしさに疑問を投げかけているようにおもう。
地方のことも原発のこともTPPのことも、大雑把に“争点”が作られ、「賛成か反対か」という話になる。むずかしいことはわからない、簡単に説明して、一言でいって。
郵政民営化の選挙のころから、どんどんそういう傾向になっている(もっと前からもそうだったかもしれない)。
今、日本のあちこちで起きている問題は、個人の手に負えないくらい複雑で厄介なことになっている。
行くところまでいって、ほんとうにどうにもならなくなるまで、変化を望まない人たちがいる。多少、自分が損をすることになっても、どうにかしたいとおもう人は、たぶん少数派だ。
だからこそ、少数派はいろんな形で発言していく必要がある。それ以前に、発言しやすい雰囲気を作ることも大事なことだろう。わたしも「何をいっても無駄」とおもいがちで、何の専門家でもない貧乏ライターという立場で社会にたいして発言することに徒労感をおぼえる。でも、たぶん、そうおもってしまう、おもわされてしまうことはよくない。考える人、行動する人を増やす。増やすだけでなく、そういう人たちを封じ込めようとする雰囲気に抵抗していくこと。
どうすればいいのかという話はいずれまた。