仕事帰り、池袋往来座に「外市」の荷物をとりに行く。
店内の詩の棚を見ていたら、『ユリイカ 特集 嵐が丘 エミリ・ブロンテの世界』(一九八〇年二月号)があった。「黒田三郎 追悼」という手書の腰巻が付いている。
鮎川信夫、中桐雅夫、田村隆一の追悼詩、北村太郎、三好豊一郎の追悼文などが収録されている。
鮎川信夫は、黒田三郎のことを批判する文章をいろいろ書いている。
わたしは、ふたりの関係はよくないとおもっていた。でも『ユリイカ』に掲載された「黒田三郎」という追悼詩を読み、ずいぶん印象がかわった。
《その後、「死後の世界」を読み
きみと話したくなって電話をすると、
きみは意外に元気な様子で近況を語ってくれ、心暖まる十五分か二十分であった。
最後にきみはさりげなく「声を聞かせてくれてありがとう」と言って、電話をきった》
池袋から代々木までの山手線の電車の中で読んでいて、「声を聞かせてくれてありがとう」のところでちょっと涙腺がゆるむ。
《きみが再入院して
再起はおぼつかないという報らせを受けてから、
ぼくはきみとたった一ぺん打った碁のことをときどき思い出していた。
(きみが美しい奥さんと結婚して、みんなに羨まれながら、西荻窪のアパートに住んでいたときのことだ)
ぼくは黒を持ち確実に三隅を占拠したが、中央の白が厚く、ずるずると敗けてしまい
会心の笑みをもらすきみを前にして、ひどく口惜しい思いをした》
「荒地」の詩人の中では、黒田三郎が碁がいちばん強かったのではないか。たしか三好豊一郎が碁敵だった。鮎川信夫は黒田三郎の「碁風」を「おっとりしていて、どこが強いのかわからない」という。
《いまでも下手な碁打ちであるぼくは考える
きみの地合いの計算には
ぼくの考慮のおよばぬところが
きっとあったにちがいない、と》
話はかわるが、電車の中吊り広告を見ていたら『文藝春秋』の今月号は東京裁判の特集のようだ。
鮎川信夫は吉本隆明との対談で、東京裁判について「少なくとも連合国側は、それは公正を装ったという言い方をすれば、そうかもしれないけれども、彼らは彼らなりに公正であろうとしたことは認めなければならない」(「戦争犯罪と東京裁判」/『対談 文学の戦後』講談社、一九七九年刊)と述べている。
そして「あれは不公平だというんだったら、日本人がもし勝者になった場合、あれよりも正当な、公正な裁判ができるかというと、ぼくはできなかったという感じがやっぱりする」とも……。
スターリンやヒトラーや当時の日本の軍部が、同じような裁判をやっていたら、まちがいなくもっとひどいものになっていただろうというのが鮎川信夫の見解である。
それは現実には起こっていないことではある。しかしそうした可能性をふまえてものを考えている。
《敗戦というのは、受け取り方にもよるけれども、勝利なんかよりもすばらしいぞということもあるんじゃないか。(中略)戦前の日本を見ていていちばんおもしろくないことは、日清とか日露とかいう戦争の勝利によって、日本の国がだんだん悪くなっていったという感じがある》(「『敗戦』と国家と個人」/同前)
もし太平洋戦争に勝利していたら、日本の国家の力はますます強まり、さらに国家への奉仕を強制されていたのではないかと……。
鮎川信夫のこうした現実認識の仕方は、どういうところからきているのか。
ちょっとそのへんのことを考えてみたくなった。