中村光夫の『近代の文学と文学者』(上・下、朝日選書)を読んでいたら、「新進作家というのは、いわゆる出来上がった文壇に反抗することで世間に出ていくし、またその反抗を通して自分の芸術を伸ばしていくのが正道である、という考え方があります」と書いてあった。
文学の新人賞、とくに芥川賞の功罪について論じた評論の一節なのだが、多数決で決めるとなると、どうしても無難な作品が残りやすく、またあるいは先輩に認められやすい作家が得をすることにたいして中村光夫は疑問をいだいている。当然の疑問だろう。
《文学はどんな場合にも、反抗である、と言えるけれども、同時にそれは継承である、とも言えるわけです。その両面を備えない作家はやはり文学の世界では本当に生きられないのではないか、そんなふうに考えられます》
わたしは、昔の作家の考え方や感じ方を継承したいとおもっている。それをどういう形で受け継いでいくか。どう新しい感覚で読み直していくか。やっぱり従来の作品に反抗、抵抗していく部分がないと、どうしても縮小再生産になっていく。それをどうすればいいのか。そんなことをいろいろ考えていたところだった。
最近、自分が齢をとったのかなあとおもうのは、新しいものへの興味が薄れてきたことだ。好奇心、情熱が弱くなっている。いっぽう二十代のころのように、お金がなくて本が買えないということはなくなった。それより本の置き場所がないことが悩みの種になった。
場所がなくて際限なく本を買うことができなくなったことが、好奇心の衰えと関係しているのではないかと考えたこともあったが、どうもそうではないような気がしてきている。
たぶん麻痺してきたのだ。本を読んで人生観が変わるようなこともない。
十年、二十年、好きで追いかけ続けてきたジャンルのことについては、未知の刺激を受けることはすくなくなってきたのは事実である。だったら新しいジャンルを開拓すればいいではないかとおもわないわけでもないが、それが億劫なのである。そのへんが齢をとったかなあとおもうところである。
《だいたいある世代の文学者は、自己を表現するために自分の父親(または兄)の世代の文学の方法、あるいは価値を否定してそれと反対の方法に歩むことで、自分の道を見いだすというのが普通です。父親の方からいうと彼は息子たちに否定されることを避けられない運命と考えるほかないわけですが、それが孫の世代になると、彼らは自分の父親を否定することによって、その父親に否定された祖父の価値を再認識するようになります。この場合、祖父にとって息子は否定するほかない敵であっても、逆に孫は思いがけなく現れてきた援軍のようなものです》
中村光夫のこういう文章を読むと、自分が古本屋通いをしながら、いわゆる戦中派作家に耽溺してきたのも、法則通りのことをやってきただけなのかという気がする。
反抗と継承のバランスというのはむずかしい。中村光夫の文章は、考えたらキリがなくなるようなことをさらっと書いているから油断できない。