ようやくコタツ布団をしまう。
すっきりした。今度出すのは十一月くらいか。
気温の変化が激しいせいか、睡眠時間がどんどんズレる。これも自分の「ふつう」とおもうことにした。
昨日、西荻窪に行って音羽館で金鶴泳の署名本を二冊買った。『あるこーるらんぷ』(河出書房新社、一九七三年刊)と『郷愁は終わり、そしてわれらは――』(新潮社、一九八三年刊)。
古山高麗雄著『袖すりあうも』(小沢書店、一九九三年刊)に「金鶴泳」という文章が収録されている。追悼文の形の「金鶴泳論」といってもいい。
金鶴泳は一九八五年一月に四十六歳で亡くなっている。
《おとなしく、言葉の少ない人だった。私はおそらく、彼の作品を読んで、執筆を依頼したのである。私が読んだ彼の作品は何と何であったか。彼と会ってどんな話をしたか。そういうことはいちいち憶えていないけれども、「凍える口」「あるこーるらんぷ」ほか、何篇かを読んで、私は彼に期待した》
古山さんに依頼され、金鶴泳は『季刊藝術』に「石の道」を書いた。
《静かな語り口で、在日韓国人が描かれていた。その存在が。その哀しみが。その存在に対する問いを、人間とは何であるかを追究することで問うている作品であった。鶴泳さんは、問題提起というかたちで問題を提起したりはしない。在日韓国人を作り出したものを告白したりはしない。だから読者は、いっそう、鶴泳さんがおそらく心の中で問うているであろうものについて考えないではいられない》
「あるこーるらんぷ」は「自分の実験室を持つこと、それが俊吉の夢であった」という文章ではじまる。
それからしばらくして父・仁舜の話になる。父は、強制連行で北海道の炭坑で働かされていた。給料は日本人の三分の一か半分、逃げないように常に見張りがついていた。
戦時中、幼い栄吉(俊吉の死んだ兄)といっしょにいたところ、一回りも年下の軍人に暴行を受けた。赤ん坊の服が「白っぽい服」を着ていたからだ。「白っぽい服」は敵機の目標になりやすい。しかし日本人の子どもだって、そうした服はざらに着ていた。
そうした差別を受けてきた父が、酒を飲むと家族に暴力をふるう。日本人の男性を好きになった姉、日本人を頑なに拒絶する父。祖国の指導者を信奉する父、朝鮮籍から韓国籍に変えようとする兄との関係も描かれる。
分裂した家族から目をそむけるように、俊吉は化学の実験にのめりこむのだが……。
この小説も「問題提起」はしていない。そして容易く解決できない問いが残る。