2007/03/31

自由にならない部分

 黒田三郎という詩人のことを書こうとすると、書きたいとおもうことがあっちこっちにいってしまう。書けば書くほど混乱する。黒田三郎の存在が自分の中で大きくなるにつれ、自分の文章にたいする感覚が変わってくる。これまで無自覚だったことを自覚させられる。そういうことは本を読んでいれば、よくあることだが、黒田三郎の場合、その自覚させられる部分が、いつもよりちょっと深いかんじがするのである。

《一篇の詩を書き上げる過程でさえ、それほど作者には明瞭ではない。詩は「つくる」ものであると同時に、「できる」ものである。極端な場合は、うっかり洩らしたひとりごとに似ている場合もある。筋肉に随意筋と不随意筋があるように、われわれの精神の内部には、われわれの自由になる部分とそうでない部分とがある。そして詩はむしろわれわれの自由にならない部分に多く依存しているようである》(黒田三郎著「生活の意味・詩の意味」/『内部と外部の世界』昭森社)

 この意見はそれほどめずらしいものではないかもしれない。多かれ少なかれ詩が好きな人には、けっこうピンとくる話だとおもう。詩にかぎらず、小説や随筆にも、そういう部分はある。
 わたしが尾崎一雄や古山高麗雄の小説を好きになったのも、文章のところどころに出てくる「うっかり洩らしたひとりごと」のような部分に共感したからだ。ただ、そのことを自覚していたかというとその自信はない。文章だけではなく、人と会話していても、「うっかり洩らしたひとりごと」のような言葉はけっこう印象に残る。
 よくひとりごとはうつるというが、まったく無根拠の話ではないのかもしれない。

 もちろん、ひとりごとを書けば、いい詩になるかといえば、そんなことはない。それが可能な人は、いわゆる天才だ。
 黒田三郎の詩は、天才の詩ではない。彼がいうところの「自由にならない部分」をものすごくうまくつかいこなしている詩人だとおもう。

 詩をつくったり文章を書いたりする上で、「自由にならない部分」をどうやってつかいこなすか。コントロールしすぎてもいけないし、コントロールしなさすぎてもいけない。黒田三郎の詩は、そのさじかげんが絶妙なのである。

 わたしは「自由になる部分」をつかえば、わりと短時間で文章が書ける。でもそういう仕事の仕方ばかりしていると、「自由にならない部分」が弱ってくる。雑誌の型にあった文章ばかり書いていると、楽に書ける、早く書けるやりかたばかりおぼえてしまう。雑誌の型だけではなく、自分の型にあった文章を書きつづけていても、だんだん「自由にならない部分」が弱ってくる。
 だからちょっとずつ型を変えようとする。
 スポーツ選手が、道具を変えたり、グリップの握りを変えたりする感覚にちかいといえばちかいかもしれない。

 黒田三郎は、自分の詩のモチーフは、自分自身の卑小さ、みじめさ、自分の生活の言いようのない空しさがモチーフになっているという。それらは日常生活では、忘れていることもある。目前の仕事に追われているときも忘れる。でもそれらは心にオリのように沈殿する。

《僕自身、自分自身の卑小さに慣れ、自分のみじめさに慣れて、毎日毎日の日常生活を送っている。だが、どんなにそれに慣れて、その中に没し切っていても、突然匕首のように僕を刺すものがある。電車のなかでぼんやりしているとき、パチンコに現をぬかしているとき、それは突然僕の心の中で電光のように閃く。
 自分自身の卑小さ、みじめさというものに対する恐愕、それに対する疑い。
 それが必ずしも詩のタネになるとは限らない。心の上でのしかかるものの一部は明瞭に僕自身にもわかる。しかしその全貌はかなり曖昧である。この曖昧さが、何よりも僕を苦しめる。(中略)
 自己の卑小さ、みじめさを自分の心にはっきり焼き付けることは、或いは「心身の緊張をもって堪え難くする」かもしれない。だが心の上にのしかかるものを曖昧なままにしておくより、それははるかに「堪えられるように」なる》(「生活の意味・詩の意味」)

 鮎川信夫は、黒田三郎のことを「ぼくと対極にいた人」と語っている。その鮎川信夫が、一九八〇年の一月、黒田三郎が亡くなったころ、極度のスランプに陥り、詩をやめようとまでおもったと告白している。
 わたしがいろいろなひっかかりをおぼえ、その後、黒田三郎について誤解する要因にもなった北川透との対談は、今読むと「理解魔」の鮎川信夫にしてはめずらしく不用意な発言が多い。酒を飲まない鮎川信夫が、酔っ払いのように見える。「自由になる部分」を鍛えぬき、「自由にならない部分」までも完璧にコントロールしようとしていたかにおもえる鮎川信夫がスランプに陥った理由とはなにか。いや、本人はスランプなどではなかったといっているのだが……。

 うーん、だんだん収拾がつかなくなってきている。
 でも、もうすこし続けるつもりだ。

2007/03/30

一日のばし

 黒田三郎のエッセイを読み、詩の難解さについて、あるいは詩人の生活について、いろいろ考えこんでしまっている。
 本を読んでいて、作者の問いかけが長く心に残るのはうれしい。
 黒田三郎という詩人の存在は、この先、自分が生きてゆく上で、かなり大きなものになるかもしれない、と予感した。「これは避けて通れないぞ」とおもった。こういうかんじは久しぶりだ。今、ちょっと混乱している。

《僕に何ができるというのか
 何が
 僕がゆっくり歩くのは
 ひとつの風景のなか
 僕の胸にあざやかによみがえるのも
 それはひとつの風景なのか
 悲しみと怒りにふるえて僕が語るとき
 それはひとつのお話、つまらないお話》
   (「それはひとつのお話」抜粋。詩集『ある日ある時』)

 長年「荒地」の詩人では、鮎川信夫に傾倒してきた。鮎川信夫を読んで、黒田三郎のことを真面目な左翼っぽい詩人なのかなあとおもいこんでいた。ほんとうに誤解していた。

『定本黒田三郎詩集』(昭森社)の中に「一日のばし」という詩がある。

《一日のばし
 二日のばし
 つまらぬことも
 大事なことも
 何となく明日にまわして
 そうやって
 やっとのことで生きて来たようだ
 一日のばし
 二日のばし
 そういう
 とりかえしのつかぬ不安のなかに
 僕の生活の大半が
 ある》(抜粋)

 昔からこういう詩が好きだったかといえば、そうだったような気もするし、そうではなかった気もする。こういうだめなかんじの詩が好きな自分をどこか恥じる気持もあった。この方向に進んでいっていいのかどうか迷いがあった。

 一九四九年、結核の診断を受け、鹿児島に帰郷していた黒田三郎はT・S・エリオットやC・D・ルイスを知っていることを前提に書かれたような詩を批判し、そんなものを知らない読者にもわかる詩を書くべきだと主張するエッセイを執筆する。

《他人に何かを伝えようとしながら、他人に何も伝えることがのできない人間、このような人間が詩人と呼ばれているのなら、まったく皮肉と言うほかない》(「詩の難解さについて」/『内部と外部の世界』昭森社)

 ただしこうした黒田三郎の問いかけは鮎川信夫には届かなかった。いや、ほんとうのところはわからない。

《鮎川 黒田を戦前から知ってるからね。十八、九の頃、もう会ってるんだからさ。だけど、彼の生活や思想から、書くものの全部を理解しているかと言ったらそうじゃないでしょうね。もう、うんと遠いということだな。ただ、ぼくの率直な感じで言うと、黒田は何か途中で力を緩めちゃったというか、休んじゃったという感じがしますね》(北川透との対談/鮎川信夫著『自我と思想』思潮社)

 わたしが黒田三郎の本を読んで混乱したのは、先にこの対談を読んでいたせいもある。気にしなければいいともおもうのだが、気になるのだからしょうがない。
 黒田三郎の詩を読むと、今のわたしは理屈ぬきでいいとおもう。黒田三郎の詩について、緩めちゃったとか休んじゃったとか、そういうふうにはまったくおもわない。

 鮎川信夫と北川透との対談は、「黒田三郎の追悼をかねて、『荒地』の現在について語ってもらいたいという「現代詩手帖」の依頼によるもの」だった。
 一九八〇年一月八日に黒田三郎は亡くなった。享年六十。この対談が行われたのは、同年二月二十五日である。

《わたしは、ひどく憂鬱だった。その原因と理由については、いずれ書く機会があるだろうから、ここでは詳しく言わないが、およそ人に会い、現在の「荒地」について意見を述べるような気分ではなかった。
 石原(吉郎)、木原(孝一)、黒田と三年連続して「荒地」から死者が出たことと、長期にわたるスランプ状態が極点に達していたこととが相俟って、私は、この年の八月には本気で詩をやめようと考え、その想念に熱中するようになるが、北川氏とのこの対談は、いわばその途中にあったわけである。(中略)黒田を批判したことで、何か特別の意味があるかのようにとられたが、このときの私は、他の仲間のことを話題にしても、たぶん、こんな調子であったろう》(『自我と思想』あとがき)

 わたしは、黒田三郎のことを書こうとしながら、鮎川信夫のことを書こうとしているのか。あるいはそうかもしれない。

……この問題はまだまだ続きそうだ。

2007/03/28

鮎川信夫と黒田三郎

 やらなければいけない仕事があるのだが、黒田三郎のことが頭から離れない。洗濯物をとりこんだり、食器を洗ったり、手紙の返事を書いたり、いろいろなことをしているあいだも、ずっと引っ掛かっている。
 毎日のように本を読む生活をしているが、わたしはそんなに詩を読んでいるわけではない。全読書量の十分の一も詩や詩に関する文章を読んでいないかもしれない。たまに読む。そのときなにかしら心を揺さぶられることは多い。今もそうだ。

《今こそ私は申します
 貧しく
 無力な
 妻や母や子や妹のために

 すべての貧しく無力なものから
   小さな幸福と
   小さな平和と
   小さな希望を
     取り上げて

 それで
 あなた方は一體何を守るというのですか
 夫や子や父や兄を駆り集めて
 それで
 あなた方は一體何を守るというのですか》
  (黒田三郎「妻の歌える」抜粋/詩集『渇いた心』)

 鮎川信夫著『自我と思想』(思潮社、一九八二年)における北村透との対談で、鮎川信夫は「黒田(三郎)という人は、同じ『荒地』のメンバーの中でも、ぼくと対極にいた人なんですね。あまり個人的関心とか交渉はなかったし、もう二〇年以上もほとんど付き合ってなかった」といっている。

《鮎川 だからたとえば昔、彼が「妻の歌える」という詩を書いて、ぼくもそれをちょっと非難したことがあるんですけど、それ以来、ぼくと黒田とはあまりよくないわけですよ。往き来というのはなくなっちゃったわけですけどね。彼はあの時点から全く変わってないわけですよ。今でも「妻の歌える」だと思うんです。妻の視点というものがあって、家庭を守るという妻の立場があって、そこからしか、たとえば、平和という問題も考えてないし。あるいは、どんな問題でもそうだと思うんです》

「妻の歌える」は、日本の再軍備反対を訴える詩なのだが、冷戦時代の国家間のパワーバランスのことなんかはあまり深く考えていない。そういう意味では、この批判は鮎川信夫らしいとはおもう。
 さらに黒田三郎が小選挙区制反対に熱心で、京都まで演説に行ったりしていたことについて、鮎川信夫は次のように述べている。

《鮎川 つまり政治なら政治という問題で、どういう問題が自分にとってリアルかということになってくるけど、ぼくがリアルだと思うようなことと、黒田がリアルと思うこととじゃ全然違うわけですよ。ぼくなんかだと、同じ時点でも、そんなことよりもっと大事なことがものすごく沢山あると思うわけ。ところが彼なんかが言うとね、それが刻下の一番大事な問題だと映ってくるわけなんですね、きっと。それは彼のいう市民生活か何かのレベルで政治を受け止めればそうなんだろうけど、それがものすごく切実な問題なんだろうと思う》

 今の感覚でいえば、ちがって当り前だとおもう。しかしそのちがいを鮎川信夫は不服におもう。鮎川信夫は、戦前の軍国主義同様、戦後の左翼も嫌っていた。全体主義という意味では同じではないかとさえいっていた。安易なヒューマニズムも否定していた。戦争がいやだというだけでは、何の解決にもならないという意見の持ち主だった。
 話はズレるかもしれないが、黒田三郎の『死と死のあいだ』所収の「現代詩と私」で、次のような意見を述べている。

《詩を書くというのは、なりわいにはならない。萩原朔太郎は医者である生家の後援なしには詩人たり得なかったろうし、夭折したが、中原中也はどうやって暮しを立てていたろうか。巷説によると、宮沢賢治が生前手にした原稿料は五円だったという。二十年くらい前までは、歳末になると、ラジオや新聞に貧乏話の座談会がよくあったが、出席者が三人だとすれば、そのうち二人までは、草野心平とか山之口貘とかいった、いわゆる詩人であった》

 詩人が食ってゆくためには、翻訳や雑文を書き、マスコミの仕事をしなければならない。
 鮎川信夫にしても北川透にしてもそうだった。

《なりわいにはならない。しかし片手間でできることでは決してない。多くの詩人というのは、この矛盾の中でその詩を書いたし、また現に書きつつある。
 戦後一年目、日本に帰って来て僕が思ったことは、詩人という遊民、風流人には決してなるまいということであった。なるまいなんて、そんな決心をしようがしまいが、その日の糧をいやでも稼がねばならない、そんな時代であった。そしてそのまま今日に至った》(「現代詩と私」)

《詩人である以前に、ひとりの人間であり、ひとりの市民であることを、詩人だからと言ってないがしろにできるわけがない。詩人という名で避けられることは、この世に何ひとつ無い、というのが戦後の僕の痛烈な反省であった。ひとりの人間であり、ひとりの市民であるという現実から、自分自身の詩を産み出すという決意だった》(「現代詩と私」)

 鮎川信夫と黒田三郎、ふたりが語ることは、どちらが正しくてどちらかが間違っているという問題ではない。ただ、「対極にいた」ふたりの詩人の往き来がなくなり、お互いの言葉が届かない関係になってしまったのは残念だ。

……さらにこの問題については後日。