2007/06/28

それからえーと

 辻征夫は明治大学卒業後、職を転々とし、一九六六年四月、思潮社に入社した。最初の仕事は、鮎川信夫の『詩の見方』(思潮社)の担当だった。
 最後に辻征夫が鮎川信夫の姿を見たのは、黒田三郎の追悼の会だった。
 会場は満員で中に入れず、待合室に案内される。

《そこに鮎川信夫氏が一人だけ、入口に背を向けてベンチに腰を掛けていたのである。「こんにちは」と挨拶すると、鮎川さんも「こんにちは」と例の屈託のない声で言い、私は邪魔にならないように斜めうしろのベンチに腰掛けた》(「鮎川信夫氏と『長兄』の死」/辻征夫著『ロビンソン、この詩はなに?』書肆山田)

 辻征夫は「私が書くのは単なる詩であって、それがどういう部類に属するものか、考えてみても別段おもしろくない」といっている。また「現代詩」という呼称も捨てて、「詩は、詩という一語で充分である」ともいう。

《ライト・ヴァースといわず敢えて詩といわせてもらうが、詩はかんたんにいえば滑稽と悲哀ではないだろうか》(「滑稽と悲哀」/『ゴーシュの肖像』書肆山田)

(……以下、『活字と自活』本の雑誌社所収)

2007/06/23

打ち荷

 来週からすこし忙しくなりそうなので、その前に山田稔著『影とささやき』(編集工房ノア)を読むことにした。

 天野忠のことを書いた「融通無碍」とエッセイがある。大野新の「『私』を軽くした分だけ『融通無碍』になって、短い作品のまわりの余白がひろくなった」という天野忠作品の解説をふまえつつ、こう述べる。

《私的、日常的なことがらを素材にしながら、「私」を自然に越えている》 

 また松田道雄のコラムにあった「打ち荷」という言葉に触発され、天野忠の詩を論じる。打ち荷というのは、難破した船が危機をのがれるために積み荷の一部を海に棄てることだそうで、「病気と貧乏に明け暮れした生涯を通じて、詩人はそのときどきに『打ち荷』を忘れず、身軽さを保ち続けてきたのではないだろうか」という。

 打ち荷。いい言葉を知った。「私」を軽くする。これまで何度となく身軽になりたいという願望を書いてきた。ライトヴァースへの関心も突き詰めるとそこに行き着く気がする。できれば文章もなるべく軽くしたい。ものを減らし、予定を減らし、生活を軽くしたい。

 本が増えると、広い部屋に引っ越したいという欲がわいてくる。その欲を利用して仕事に励むこともあるのだが、仕事が忙しくなると今度はのんびりできなくなる。

 かれこれ十年以上もこの問題で堂々めぐりしている。

 そういえば、山田稔さんの『ああ、そうかね』(京都新聞社)にも「融通無碍」という言葉が出てくる。「文の芸」と題したエッセイで小沼丹の『珈琲挽き』(みすず書房)について次のようにいう。

《小沼丹の文章のもうひとつの特徴は人称代名詞を用いない点にある。これは徹底していて、この随筆集のなかでわずかに「僕」、「われわれ」が一、二度出て来る程度である。「私」も「彼(女)」も使わず、それで文意があいまいになることはない。自他の境が取っ払われた融通無碍の世界で読者は寛がせてもらえる》 

 今の作家だと石田千さんがそうかもしれない。

 たまに主語なし文章を書こうと試みるのだが、どうもしっくりこない。

2007/06/21

気分のいい生活

 なんだか生活のリズムがおかしくなっている。睡眠時間が毎日数時間ずつズレてしまう。その結果、洗濯物がたまったり、未整理の資料が増えたり、自炊の回数が減ったりして、今、気持がすさんでいる。
 とどこおりなく家事がしたい。いや、そうじゃない。掃除をしたり、メシを作ったり、アイロンをかけたり、手抜きしようとおもえばいくらでもできることをなるべくていねいにしたいのだ。なんだろう、この欲求は。

 そんな気分のときに、森茉莉の『私の美の世界』(新潮文庫)を読んでいたら、いろいろ考えさせられた。どうして森茉莉のエッセイを読んだのかというと、その本が目の前にあったからにすぎない。
 この本の「ラアメンとお茶漬け」というエッセイで、森茉莉は「インスタントラアメン」や「家庭電化」などの生活の合理化なんてものは、世の中を味気なくするだけで、合理化によって余暇ができたとしても、なんにもなっていないのではないかと問いかけ、次のようにいう。

《ラアメンで倹約した時間で睡眠を摂って、会社へ駆けつけたら、どんな素晴らしい仕事がその分だけよけいに出来るかというと、大したこともないらしいし、(生活のかかっている、すごいヴェテランは別)奥さんがインスタント昼食で浮かせた時間で、読書会をやって、エロでなさそうな小説を読んで、感想を交換しても、手芸をしてデパアトに出品したとしても大したことはない。(中略)
 欧羅巴(ヨーロッパ)の主婦は、アメリカの主婦が紙ナフキンを使い捨てにするのとちがって、上等の、一代ずっと使えそうな、木綿のナフキンに刺繍をして使っていることだし、又欧羅巴の主婦は勤めのために忙しくて、自分で料理が出来ないと不機嫌になるそうである。少し位手がかかっても、生活の底に格調のある、気分のいい生活をした方が、結局はほんとうの合理的生活なのだと、わたしは思っている》

 森茉莉のいうような格調のある暮らしは、はじめから望んではいないけど、多少家計をきりつめることになっても、ゆっくり料理をしたり、掃除をしたりする余裕がほしいとおもう。

 そんなに仕事もしていないし、(森茉莉の嫌いな)電化製品の世話になっているにもかかわらず、いつも時間が足りないかんじがするのはなぜだろう。忙しいなあとおもいながら、だらだらテレビやインターネットを見たりしているのがいけないということはわかっている。
 ぐうたらしているせいで、家事がめんどうくさくなって、「なんでおればっかり」とおもいながら、食器を洗ったりしているのもよくない。
 気分がよくないから、仕事にとりかかるのに時間がかかり、だらだらしてしまうから、時間がなくなる。ほんとうはなくなっているのは時間ではなく、充足感なのかもしれない。別に誰からほめてもらえなくても、ゆっくりていねいに仕事や家事をしたあとは、不思議と気分がいいものだ。