2011/10/25

『For Everyman』トークショー

『For Everyman』創刊記念トークショー

河田拓也責任編集の雑誌『For Everyman』が創刊されました。
山田太一×原恵一超ロング対談や「悪名」「犬」シリーズ再見 藤本義一インタビューなど一癖ある特集を掲載。ここでしか聞けない裏話が!

河田氏は「文壇高円寺」の名づけ親でもあり、年がら年中、とりとめもない議論を交わしてきた友人です。その物事の本質を(まったく人とはちがった角度から)つきつめようとする姿勢に、刺激を受け続けてきました。
今回のトークショーの内容は未定ですが、いつもの河田氏の言葉の熱量のすごさを引き出すことができたらとおもっています。

11月6日(日)18時〜
場所:高円寺ハチマクラ 奥のギャラリー
出演:河田拓也(本誌編集長)
   荻原魚雷、ゲスト オグラ(歌)
1000円(1ドリンク付)
 
※予約はハチマクラへ電話かメールで
お名前と人数を伝えてください。

ハチマクラのホームページ http://hachimakura.com/index.php

2011/10/24

小布施

 日曜日、長野県小布施のまちとしょテラソ一箱古本市に行ってきました。わめぞ枠で本も出品した。

 前日、ずっと明け方まで仕事し、朝七時に家を出て、その日の夜に帰るという強行軍だったのだけど、行ってよかった。
 はじめて長野行の新幹線に乗ったかもしれない。
 小布施駅から歩いている途中、古本屋がありそうな気配がなくて、ちょっと不安になる。
 ところが、会場に着いたら、わめぞメンバーがいて、さらに数メートル先に五っ葉文庫さん、その隣に長野の遊歴書房さん、つん堂さん……。

 古本イベントと六斎市が同時開催で、本を見ながら、地元の料理を食べまくり(あちこちで試食できて、それだけでお腹いっぱいになる)、酒を飲んで、町歩きをぞんぶんに楽めた。
 そば、うまかった。土産選びに迷うくらい、家に持って帰りたい食材があって、「この味でこの値段」という驚きの連続だった。

 小布施は徒歩で回れて、休む場所がたくさんある。
 駅から歩いてすぐのところに、図書館もあって、館内で自由に持ち込んだものを飲み食いできる。

 本だけでなく、町の魅力を伝える意味でも、地元のイベント(お祭りとか)に合わせて古本市を開催するというのは、いい方法だとおもった。
 都市型のブックイベントとはちがうあり方として、小布施の一箱古本市は参考になるところがたくさんあった。

 このあたりのことは余裕ができたら、じっくり考えてみたい。

2011/10/19

表現と表出

 本を積めたダンボールを動かそうとしたら、左肘に違和感をおぼえた。またやってしまった、とおもった。曲げたり、力をいれたり、ものを持ったりすると、ピリッと痛みが走る。激痛ではないのだが、本を読んでもピリッ、原稿を書いていてもピリッ、食器を洗っていてもピリッとくる。

 前にも長時間うつ伏せで本を読んでいて右肘を痛めた。すぐには治らなかった記憶がある。

 夜、沖縄そばっぽいものを作る。沖縄そばのスープ(市販のもの)に野菜と挽肉、ちゃんぽんの麺をいれる。残ったスープは雑炊にする。

『色川武大・阿佐田哲也エッセイズ』の「放浪」の巻を読んでいたら、「節制しても五十歩百歩」というエッセイがあった。

《人は健康のために生きているわけじゃない》

《昨今の私がしていることの中で、もっとも身体にわるいと思えるのは、仕事である》

 中年をすぎて節制してもたいして変わらない。ところが、戦争がなくなって、病気にならず、事故を避けていれば、永遠に生きられるかのような錯覚におちいった人が増えた。
 色川武大は、節制ではなく、「うまく片づくという方向に努力すべきではないのか」と問いかける。

 自分の言葉に殉じた作家、または自分が殉じることのできる思想のみを言葉にした作家だった。
 だから、わたしは色川武大の文章に魅了される。同時にとんでもない人間だとおもう。

 五年くらい前、わたしは鮎川信夫の次の言葉を引用したことがある。

《表現という問題そのものも、現代においてはそれほど骨身をけずるものではなくなっている。表現というより表出で、今ほとんどの表現はその段階にきていると思う。多くの雑誌を見ると、僕らみたいな昔者には真似できないぐらい皆うまくなっている。しかし、一定の技術・コツの中での表出である」(「『一九八四年』の視線」/鮎川信夫著『疑似現実の神話はがし』思潮社、一九八五年刊)

 わたしは「表出」ではないものとは何だろうと考えていた。
「一定の技術・コツ」があれば、どんな意見であっても(自分がおもっていないことであっても)、それなりに読める文章にすることができる。

「骨身を削る」というのは「苦労する」という意味ではない。

 たとえまちがっていたとしても、どうにも変えられない骨絡みの考えを身を削って書く。
 鮎川信夫のいう「表現」はそういうものだった。
 わたしはよくわかっていなかった。まだわかっているとはいえない。

 ただ、目指したいのは、そういう「表現」なのである。