野球が好きでよかったとおもうことのひとつに、澤宮優の文章を読む喜びがある。
選手ひとりひとりの人生が凝縮された言葉を絶妙に引き出し、野球というスポーツの魅力だけでなく、選手たちの“不屈の姿勢”を垣間見せてくれる。
新刊の『二軍』(河出書房新社)もそうだった。
澤宮優の野球ノンフィクションは、プロとしては不遇だった選手に光を当てている作品が多い。今回のタイトルは『二軍』ということもあって、読む前からかなり期待していた。
にもかかわらず、その期待を軽く上回った。
『二軍』そして『ドラフト1位』『ドラフト外』(いずれも河出文庫)も野球のボールの写真が装丁につかわれている。
この本に登場するのは、近藤真市(中日)、髙橋慶彦(広島・ロッテ・阪神)、井上真二(巨人)、金剛弘樹(中日)、西俊児(日本ハム)、藤岡寛生(巨人・日本ハム)、庄司智久(巨人・ロッテ)、太田幸司(近鉄・巨人・ロッテ)、戎信行(オリックス・ヤクルト)、 そして巨人軍寮長の武宮敏明、藤本健作——。
もっとも活躍したのは髙橋慶彦だろう。最初はこの本に入っていることが意外だった。
ずっとスター街道を歩んできた選手だとおもっていたから。もちろん、二軍時代もあったし、現役引退後にロッテの二軍監督もしている。
プロ入りして数年で結果を出さなければ、クビになる。
髙橋慶彦ですら、高校を出て、プロのプレーを見て「俺、一年でクビになるな」とおもったらしい。
それで練習の鬼になった。
その後、スイッチヒッターに転向するさいには「一日二十四時間では、練習に足りない」とまで考えた。
《練習を精一杯やって、自分でも行けると思って失敗した。このときどう考えるか。“まだ練習が足りない”と思えばいいだけで、その繰り返しですよ。自分の力が足りない。また練習しよう、ですよ》
指導者になってからは——。
《俺が自分で練習やってのは自分がしたいからやってたわけ。選手の首根っこを捕まえてさせる必要もあるんだけど、心が疲れたら練習ができなくなる。体を動かすのは筋肉じゃない。まずは心と頭だからね》
野球の話だが、仕事全般についても考えさせられる話だ。
二軍でどんなに結果を出しても、なかなか一軍に上がれない選手もいる。
それでも腐らず、練習や工夫を重ねている。
雑用も手をぬかない。
記録は残せなくても、そうした姿勢をずっと見ている人もいる。
プロ十年目で初勝利、最優秀防御率のタイトルを獲得した戎信行投手の話もよかった。
一球の重さをはじめて知った。
2014/03/23
2014/03/15
近況その他
昨日、室生犀星の『随筆集 刈藻』(清和書院、一九五八年刊)を読んだ。この本、ずっと「川藻」という題だとおもっていた。背表紙の「刈」の字のところのパラフィンが傷んでいて「川」の字に見える。それで勘違いしていた。
犀星、自分の本が売れないという愚痴ばっかり書いている。
それはさておき、「拍手を外に」という随筆は気になることが書いてあった。
二十代、三十代は過ぎるのが早い。
ところが——。
《十代から二十代までは永かつた。それと似て五十から六十の間も永い、若い時代につひやした一日の生活といふものが、五十代になると二日くらゐの永さで生活できるやうだ。気持にゆとりがあり、物を見ることに叮寧綿密さがゆき亙つてゐて、すぐ結論にはなかなか達しなくて何度も考へ直して見るからである。肉体的にはその動作が鈍くなるせゐもある》
ほんとうだろうか。五十代になってそうおもえたらうれしい。
あと五年ちょっと。今の感覚だと五年なんてあっという間の気がする。
ただし、五年後の自分が予想つかない。
*
『本の雑誌』の今月号は小沼丹著『珈琲挽き』(講談社文芸文庫)について書いた。
小沼丹は文芸文庫ではじめて知った作家で、『小さな手袋』が刊行されたときにすぐ新刊で読んだ。主語のない不思議な文章で真似しようかとおもったことがある。でもしっくりこなかったのでやめた。
小沼丹は「第三の新人」の作家と感性がちかいといわれることがあるが、今読むとちょっとちがう気がする。随筆に関しては、詩人の天野忠と読後感が似ているとおもう。
『小説すばる』の今月号は「まんが道と古本」——。
藤子不二雄著『トキワ荘青春日記』の一九五七年十月二十七日に、次のような記述がある。
《さっき買ってきた森卓夫という明治の青年の書いた日記『灰するが可』を読む。蘆花に送ったら『灰するが可』とだけノートに書いて送り返してきたという。明治時代の青年の悩みが書いてあるのだが、つながる感じがあって十一時まで読む》
長いあいだ、『灰するが可』という本を探していた。実は、著者名も本の題名もまったくちがうことがわかった。
森卓夫は、出隆だったんですね。
「まんが道と古本」は次号も続く予定です。
犀星、自分の本が売れないという愚痴ばっかり書いている。
それはさておき、「拍手を外に」という随筆は気になることが書いてあった。
二十代、三十代は過ぎるのが早い。
ところが——。
《十代から二十代までは永かつた。それと似て五十から六十の間も永い、若い時代につひやした一日の生活といふものが、五十代になると二日くらゐの永さで生活できるやうだ。気持にゆとりがあり、物を見ることに叮寧綿密さがゆき亙つてゐて、すぐ結論にはなかなか達しなくて何度も考へ直して見るからである。肉体的にはその動作が鈍くなるせゐもある》
ほんとうだろうか。五十代になってそうおもえたらうれしい。
あと五年ちょっと。今の感覚だと五年なんてあっという間の気がする。
ただし、五年後の自分が予想つかない。
*
『本の雑誌』の今月号は小沼丹著『珈琲挽き』(講談社文芸文庫)について書いた。
小沼丹は文芸文庫ではじめて知った作家で、『小さな手袋』が刊行されたときにすぐ新刊で読んだ。主語のない不思議な文章で真似しようかとおもったことがある。でもしっくりこなかったのでやめた。
小沼丹は「第三の新人」の作家と感性がちかいといわれることがあるが、今読むとちょっとちがう気がする。随筆に関しては、詩人の天野忠と読後感が似ているとおもう。
『小説すばる』の今月号は「まんが道と古本」——。
藤子不二雄著『トキワ荘青春日記』の一九五七年十月二十七日に、次のような記述がある。
《さっき買ってきた森卓夫という明治の青年の書いた日記『灰するが可』を読む。蘆花に送ったら『灰するが可』とだけノートに書いて送り返してきたという。明治時代の青年の悩みが書いてあるのだが、つながる感じがあって十一時まで読む》
長いあいだ、『灰するが可』という本を探していた。実は、著者名も本の題名もまったくちがうことがわかった。
森卓夫は、出隆だったんですね。
「まんが道と古本」は次号も続く予定です。
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