日曜日、三重に帰郷する。鈴鹿に滞在中、二日で三回、港屋珈琲に行く。
朝七時すぎに起き、午前八時にモーニング(コーヒー+トースト+ゆでたまごのセットが三百九十円)。家の近所を散歩し、市役所や銀行などをまわったのだが、まだ午前中だ。一日が長い。
ひさしぶり——三十年ぶりくらいに椿大神社にも行った(最近、パワースポットとしても有名らしい)。椿会館で天ぷら定食を食べ、土産にとりめしを買った。
鈴鹿に帰ったら、椿会館のとりめしとゑびすやのうどんは食いたいとおもう。ゑびすやはかやくうどんを復活させてほしい。
わたしが上京した年に、両親は隣の駅に引っ越した。近所を散歩していても、「こんなところがあったんだ」という発見がいろいろある。今回、自分が通っていた小学校がけっこう近いことを知った。徒歩圏内に喫茶店やコンビニができたのもありがたい。
三重に帰る前にメリーゴーランド京都の店長の鈴木潤さんの『絵本といっしょにまっすぐまっすぐ』(アノニマ・スタジオ)を読んだ。ふだんの生活を綴りながら絵本を紹介する日記のようなエッセイである。
メリーゴーランドは一九七六年にオープンした三重の四日市にある子どもの本専門店。メリーゴーランドの京都店がオープンしたのは二〇〇七年。わたしも何度か古本市に参加し、鈴木さんにはお世話になっている。
三重から京都に移ってから鈴木さんは結婚して二児の母になる。そんな大きな変化を経験しているにもかかわらず、絵本が好きというおもいは変わらない。
四日市の人は語尾に「〜やに」と付く。わたしは鈴鹿出身なので「やに」はあんまりいわない。どちらかといえば「〜やん」が多い……とおもっていたのだが、帰省したら母が「やにやに、やにやに」いっていた。単にあまりにも聞きなれていて、自覚がなかっただけだった。『絵本といっしょにまっすぐまっすぐ』にも、ところどころ三重弁が出てくる。ちなみに、鈴木さんも「〜やに」をすごくいう。
鈴鹿での用事をすませ、京都に行く。五条のcafeすずなりで『些末事研究』の福田賢治さん、東賢次郎さんと会う。途中から扉野良人さんも合流した(高円寺にいる気分になる)。
鈴鹿にいるあいだは一滴も酒を飲んでなかったのでつい飲みすぎてしまう。
《かつて或る研究書の翻訳のなかで、ミクロロギーという言葉に「些末事研究」という訳語があてられているのを見て、なるほどと思ったことがある》(市村弘正著『[増補]小さなものの諸形態』平凡社ライブラリー)
福田さんが中央線沿線に住んでいたころ、市村弘正さんの本をすすめられて、この本を読んだ。ミニコミの『些末事研究』は、市村さんのこの文章からとった。
身近なこと、些細なことを同世代の友人と話す。福田さんもわたしもずっとフリーランスなので、世事に疎い(福田さんはいっしょにするなとおもっているかもしれないが)。
東さんも福田さんも以前は中央線沿線に住んでいて、今は京都と高松にいる。
今、自分がいる場所で何ができるだろうということを考えたが、まとまりそうにない。
2016/06/19
ライクロフトの暮らし
ギッシングの『ヘンリー・ライクロフトの私記』が刊行されたのは一九〇三年。この小説は、ライクロフトが残した私記を季節ごとに分け、それをギッシングが編集したという体裁をとっている。
いわば、架空の人物の架空のエッセイもしくは日記である。
百年以上前に書かれた『ヘンリー・ライクロフトの私記』は、今でも読み継がれている。
ライクロフトは十代のころから文筆の世界に生きてきた。生活はずっと苦しかった。ところが、五十歳のときに、友人から一生働かなくても暮らせるくらいの額の年金を相続し、彼は風光明媚なイングランドの田舎に家を建て、悠々自適の生活を送る。
羨ましい……とおもったが、ちょっと待てよ。
二一世紀の日本であれば、ライクロフトのような生活は、莫大な遺産を相続したり、宝くじに当たったりしなくてもできる。
五十歳のライクロフトはひとり身である。妻はすでに他界し、子どもは独立している。
田舎に引っ越す前は、ロンドンにいた。
都会を離れ、田舎でひとり暮らしをするのであれば、別に大きな屋敷に住む必要はない。小さな山小屋で十分だ。
ライクロフトは、身のまわりの世話をさせるため、優秀なハウスキーパーを雇うが、それだって自分で家事をすれば、その分、金が浮く。
ライクラフトは金のかかる趣味はしていない。草花を愛で、古典を読む。散歩と読書の日々だ。
さて、そう考えると、どうでしょう。
田舎だと、ひとり暮らし用の部屋を探すのはむずかしいかもしれないが、すこし不便なところなら、格安で一軒家が売っている。都内の家賃二、三年分でそこそこいい家を手にいれることもできるだろう。
あと必要なのは毎月の食費や光熱費。収入がほとんどなければ、税金や保険料だってかからない。完全に仕事をやめるのではなく、「半隠居」くらいの感覚なら、何とかやっていけそうである。
月十万円くらいの収入があれば、余裕かもしれない(病気やケガをしないという前提だけど)。
夢物語とおもって読んでいた『ヘンリー・ライクロフトの私記』だが、暖炉のある家とハウスキーパーさえ諦めたら、ライクロフトのようなのんびりした田舎暮らしは不可能ではない。
……都会の暮らしに行き詰まったときの選択肢としてはありだ。
いわば、架空の人物の架空のエッセイもしくは日記である。
百年以上前に書かれた『ヘンリー・ライクロフトの私記』は、今でも読み継がれている。
ライクロフトは十代のころから文筆の世界に生きてきた。生活はずっと苦しかった。ところが、五十歳のときに、友人から一生働かなくても暮らせるくらいの額の年金を相続し、彼は風光明媚なイングランドの田舎に家を建て、悠々自適の生活を送る。
羨ましい……とおもったが、ちょっと待てよ。
二一世紀の日本であれば、ライクロフトのような生活は、莫大な遺産を相続したり、宝くじに当たったりしなくてもできる。
五十歳のライクロフトはひとり身である。妻はすでに他界し、子どもは独立している。
田舎に引っ越す前は、ロンドンにいた。
都会を離れ、田舎でひとり暮らしをするのであれば、別に大きな屋敷に住む必要はない。小さな山小屋で十分だ。
ライクロフトは、身のまわりの世話をさせるため、優秀なハウスキーパーを雇うが、それだって自分で家事をすれば、その分、金が浮く。
ライクラフトは金のかかる趣味はしていない。草花を愛で、古典を読む。散歩と読書の日々だ。
さて、そう考えると、どうでしょう。
田舎だと、ひとり暮らし用の部屋を探すのはむずかしいかもしれないが、すこし不便なところなら、格安で一軒家が売っている。都内の家賃二、三年分でそこそこいい家を手にいれることもできるだろう。
あと必要なのは毎月の食費や光熱費。収入がほとんどなければ、税金や保険料だってかからない。完全に仕事をやめるのではなく、「半隠居」くらいの感覚なら、何とかやっていけそうである。
月十万円くらいの収入があれば、余裕かもしれない(病気やケガをしないという前提だけど)。
夢物語とおもって読んでいた『ヘンリー・ライクロフトの私記』だが、暖炉のある家とハウスキーパーさえ諦めたら、ライクロフトのようなのんびりした田舎暮らしは不可能ではない。
……都会の暮らしに行き詰まったときの選択肢としてはありだ。
2016/06/14
金は時なり
ギッシングの『ヘンリー・ライクロフトの私記』の中に「時は金なり」の格言を「金は時なり」と言い換える文章がある。冬の章——けっこう最後のほうだ。
岩波文庫の平井正穂訳では次のように綴られている。
《金こそが時間なのだと思う。金があれば、私は時間を好きなように買うこともできる。もし金がなければ、その時間もいかなる意味においても私のものとはならないだろう。いや、むしろ私はその憐れな奴隷とならざるえないだろう》
光文社古典新訳文庫の池央耿訳は以下の通りだ。
《金は時なり。金さえあれば自由に使える楽しい時間を買うことができる。貧しくてはとうてい買えないどころか、その自由にならない時間の惨めな奴隷に成り下がるだろうではないか》
冬の章の「金は時なり」の話にかぎっていえば、平井正穂訳のほうがしっくりくる。
さらにこのあと「われわれが生涯を通じてやっていることも、要するに時間を買う、もしくは買おうとする努力にほかならないといえないだろうか」(平井訳)というライクロフトの問いかけがある。
古典新訳文庫は「ただ時間を買うことに、あるいは時間を買おうと齷齪することに生涯を費やして何になろう」となっている。
ちなみに、原文は《What are we doing all our lives but purchasing,or trying to purchase,time?》——である。
冬の章を読むかぎり、ギッシングおよびライクロフトは「(お金で)時間を買うこと」を肯定しているような気がする。「金は時なり」は、貴重な真理なのだから。
お金で自分の時間を買う。自分の時間はわずかなお金で買うことができる。逆にいえば、必要以上の金を稼ぐために自分の時間を失い続けるのは愚かなことなのではないか。
定年まで働き続け、年金がもらえる齢になれば、自由な時間が得られる。しかし、齢をとって自由な時間を得たとしても、たぶん若いころと同じような時間の使い方はできない。
わたしは二十代のころ、あまり仕事をしていなかった。もったいない時間の使い方をしたとおもっている。もっと働けばよかったとはおもっていない。もっと読んでおけばよかったとおもう本がたくさんある。
金をとるか時間をとるかでいえば、できるかぎり時間をとりたい。やりたくないこと、したくないことをする時間を減らしたい。仕事そのものが好きでやりたいことであれば申し分ない。それはそれで容易なことではない。
時間を買うことに生涯を費やして何になるか。時間を買うことで、憐れ、そして惨めな奴隷にならないですむ。
岩波文庫の平井正穂訳では次のように綴られている。
《金こそが時間なのだと思う。金があれば、私は時間を好きなように買うこともできる。もし金がなければ、その時間もいかなる意味においても私のものとはならないだろう。いや、むしろ私はその憐れな奴隷とならざるえないだろう》
光文社古典新訳文庫の池央耿訳は以下の通りだ。
《金は時なり。金さえあれば自由に使える楽しい時間を買うことができる。貧しくてはとうてい買えないどころか、その自由にならない時間の惨めな奴隷に成り下がるだろうではないか》
冬の章の「金は時なり」の話にかぎっていえば、平井正穂訳のほうがしっくりくる。
さらにこのあと「われわれが生涯を通じてやっていることも、要するに時間を買う、もしくは買おうとする努力にほかならないといえないだろうか」(平井訳)というライクロフトの問いかけがある。
古典新訳文庫は「ただ時間を買うことに、あるいは時間を買おうと齷齪することに生涯を費やして何になろう」となっている。
ちなみに、原文は《What are we doing all our lives but purchasing,or trying to purchase,time?》——である。
冬の章を読むかぎり、ギッシングおよびライクロフトは「(お金で)時間を買うこと」を肯定しているような気がする。「金は時なり」は、貴重な真理なのだから。
お金で自分の時間を買う。自分の時間はわずかなお金で買うことができる。逆にいえば、必要以上の金を稼ぐために自分の時間を失い続けるのは愚かなことなのではないか。
定年まで働き続け、年金がもらえる齢になれば、自由な時間が得られる。しかし、齢をとって自由な時間を得たとしても、たぶん若いころと同じような時間の使い方はできない。
わたしは二十代のころ、あまり仕事をしていなかった。もったいない時間の使い方をしたとおもっている。もっと働けばよかったとはおもっていない。もっと読んでおけばよかったとおもう本がたくさんある。
金をとるか時間をとるかでいえば、できるかぎり時間をとりたい。やりたくないこと、したくないことをする時間を減らしたい。仕事そのものが好きでやりたいことであれば申し分ない。それはそれで容易なことではない。
時間を買うことに生涯を費やして何になるか。時間を買うことで、憐れ、そして惨めな奴隷にならないですむ。
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