先週と今週、神保町古書モールで百円から五百円くらいの街道に関する本、郷土文学の本を買いまくる。「道」関係なら何でもあり状態になっている。
昨日は高円寺の西部古書会館に徹夜で原稿を書いたあと(といっても、朝寝昼起が基本なのだが)、初日の午前中から参戦した。
目の前に読みたい本があふれている。カゴを持って本を買うことが増えた。
すこし前の自分なら手にとらなかったような本が、めちゃくちゃおもしろい。大判の本が増え、仕事部屋が大変だ。しかし今は足を止める時期ではない。
佐藤清著『道との出会い [道を歩き、道を考える]』(山海堂、一九九一年)はいい本だった。著者は一九三五年生まれ。長年建設省に勤めていた人だが、冒頭から「歩く楽しさと歩ける道づくり」を唱えている。
《最近、せっかく長距離の徒歩旅行をするのなら、歴史的な旧街道の一部または全部を歩いてみたいという人も増えてきているようだ。(中略)ただここで気になることは、急激に発達してきた自動車交通の波に押されて、旧街道の大部分は近代的ハイウェイに生れ変り、連続して安全に、そして快適に歩ける道が少なくなってしまったということである》
《国道や県道に併設されている歩道と、裏道(市町村道)や峠道として残っている旧街道をうまく結びつけて、連続した形での旧街道を再現させることは可能であるように思える》
イギリスやドイツでは長距離の歩道が網の目のように整備されている。安心して歩ける道がある。日本にもいい歩道はたくさんある。ただ、それが寸断されている。そこが問題なのだ。
《「歴史の道」を保存して後世に残し、さらには国民の健康の増進のために自然に触れながら、快適に長距離を歩くことのできる道を整備することが、今後の「道づくり」の一つの課題であろう》
「歩く楽しさと歩ける道づくり」という文章の初出は一九八五年五月。この時期、安心して歩ける歩道の整備にとりかかっていれば……。
2018/09/27
馬橋村と高円寺村
青梅街道は「甲州裏街道」とも呼ばれていた。新宿から青梅、そして大菩薩峠を通って甲府に通じていた。江戸に石灰を運ぶための道だった。
高円寺の隣の中野は青梅街道の宿場町である。青梅街道の高円寺付近に福寿院という寺がある。場所は杉並第八小学校のすぐ隣のようだ。中西慶爾著『青梅街道』(木耳社)を読み、この寺に浮世絵師、池田英泉(渓斎英泉)の墓があることを知った。英泉は広重との合作『木曾街道六十九次』の作者である。
街道本を読んでいると、旧町(村)名がわからなくて混乱するときがある。高円寺は、かつて高円寺村と馬橋村だった。大雑把に分けると、高円寺村が東(中野寄り)、馬橋村が西(阿佐ヶ谷寄り)である。村から町になったのは杉並区が成立した一九三二年、馬橋の町名が廃止になったのは一九六五年。今でも馬橋稲荷神社、馬橋公園、馬橋小学校、馬橋盆踊りなど「馬橋」の名が残っている。
馬橋村、高円寺村界隈には多くの作家が住んでいた。吉川英治も関東大震災後の一九二四年に馬橋に移り住んだ。三十二歳。まだ複数の筆名で小説を書いていたころだ。
吉川英治記念館は青梅市にある。戦中、青梅に疎開し、そのまま九年半すごした。
わたしは十九歳の秋、二十歳になるすこし前に高円寺に引っ越した。その後、十年ちょっとのあいだずっと旧馬橋村界隈を転々とした。三十二歳のときに旧高円寺村界隈に移った。旧高円寺村のほうが長くなった。ただし酒を飲みに行くのは旧馬橋村方面である。
井伏鱒二の『荻窪風土記』の副題は「豊多摩郡井荻村」。年譜には一九二七年九月に「豊多摩郡井荻村字下井草一八一〇(現、杉並区清水)に家を建てる」とある。ところが、井荻村が井荻町になったのは一九二六年七月——。
東京府豊多摩郡は広くて、今の杉並区だけでなく中野区新宿区の一部も含まれていた。高円寺と西早稲田や歌舞伎町は同じ郡だった。不思議なかんじがする。
高円寺の隣の中野は青梅街道の宿場町である。青梅街道の高円寺付近に福寿院という寺がある。場所は杉並第八小学校のすぐ隣のようだ。中西慶爾著『青梅街道』(木耳社)を読み、この寺に浮世絵師、池田英泉(渓斎英泉)の墓があることを知った。英泉は広重との合作『木曾街道六十九次』の作者である。
街道本を読んでいると、旧町(村)名がわからなくて混乱するときがある。高円寺は、かつて高円寺村と馬橋村だった。大雑把に分けると、高円寺村が東(中野寄り)、馬橋村が西(阿佐ヶ谷寄り)である。村から町になったのは杉並区が成立した一九三二年、馬橋の町名が廃止になったのは一九六五年。今でも馬橋稲荷神社、馬橋公園、馬橋小学校、馬橋盆踊りなど「馬橋」の名が残っている。
馬橋村、高円寺村界隈には多くの作家が住んでいた。吉川英治も関東大震災後の一九二四年に馬橋に移り住んだ。三十二歳。まだ複数の筆名で小説を書いていたころだ。
吉川英治記念館は青梅市にある。戦中、青梅に疎開し、そのまま九年半すごした。
わたしは十九歳の秋、二十歳になるすこし前に高円寺に引っ越した。その後、十年ちょっとのあいだずっと旧馬橋村界隈を転々とした。三十二歳のときに旧高円寺村界隈に移った。旧高円寺村のほうが長くなった。ただし酒を飲みに行くのは旧馬橋村方面である。
井伏鱒二の『荻窪風土記』の副題は「豊多摩郡井荻村」。年譜には一九二七年九月に「豊多摩郡井荻村字下井草一八一〇(現、杉並区清水)に家を建てる」とある。ところが、井荻村が井荻町になったのは一九二六年七月——。
東京府豊多摩郡は広くて、今の杉並区だけでなく中野区新宿区の一部も含まれていた。高円寺と西早稲田や歌舞伎町は同じ郡だった。不思議なかんじがする。
2018/09/25
青梅街道のへそ
昨日の昼すぎ、西荻窪。音羽館に寄ってから、北口をまっすぐ歩いて青梅街道。
中西慶爾著『青梅街道』(木耳社、一九八二年)を読んでいたら、急に歩きたくなった。中西慶爾には他にも『甲州街道』『巡歴中山道』(いずれも木耳社)という街道本がある。
中野から荻窪くらいまでの青梅街道はよく歩いている。でも荻窪から先はよく知らない。
西荻窪〜荻窪間は、まいばすけっと(イオン系の小型スーパーマーケット)がたくさんある。
荻窪方面に向かって歩いていると荻窪八幡神社があり、その少し先に本屋Titleがある。Titleで太陽の地図帖『日本の古道を歩く』(平凡社)を買い、コーヒーを飲む。『日本の古道を歩く』は、今年の夏に歩いた「伊勢本街道」も出てくる。伊勢奥津の街道、雲出川が素晴らしく、土の道も残っている(伊勢奥津のことは次号の『フライの雑誌』に書いた)。
さらに少し歩くと青梅街道と環状八号線が交差する四面道(しめんどう)にたどりつく。
『青梅街道』によると「四面道だが、土地っ子は“しめんと”という。(中略)井伏鱒二は“青梅街道のヘソ”という。車の渋滞で名高い喧騒の地である」そうだ。井伏鱒二は四面道の北(清水町一丁目)に住んでいた。井伏鱒二旧宅は十年くらい前に見に行ったことがある。
この四面道を環八に沿って中央線の線路方向に歩くと慈雲山光明院(通称・荻寺)があると『青梅街道』に記されていた。
《作家上林暁はこの寺近くの旅館に仕事部屋を構え、佳作「光明院の鐘の音」(昭和二十九年)などを書いた》
光明院に行ってみると線路のすぐそば。お寺の前を中央線(快速)が走る。光明院ガード(トンネルっぽい)を抜けると、北口から南口に抜けることができる。近くまでは来たことがあったのに、このガードは知らなかった。中央線の荻窪界隈、まだまだ知らないことだらけだ。
タウンセブンではまちの寿司(オリーブはまち?)、ザ・ガーデンで焼きさばの瓶詰などを買い、家に帰る。夜、仕事にとりかかるのも睡魔が……。
(追記)
井伏鱒二著『荻窪風土記』(新潮文庫)には「四面道は青梅街道のへそのようなもので、その常夜燈は荻窪八丁通りのトーテムのようなものであったろう」と記されている。
中西慶爾著『青梅街道』(木耳社、一九八二年)を読んでいたら、急に歩きたくなった。中西慶爾には他にも『甲州街道』『巡歴中山道』(いずれも木耳社)という街道本がある。
中野から荻窪くらいまでの青梅街道はよく歩いている。でも荻窪から先はよく知らない。
西荻窪〜荻窪間は、まいばすけっと(イオン系の小型スーパーマーケット)がたくさんある。
荻窪方面に向かって歩いていると荻窪八幡神社があり、その少し先に本屋Titleがある。Titleで太陽の地図帖『日本の古道を歩く』(平凡社)を買い、コーヒーを飲む。『日本の古道を歩く』は、今年の夏に歩いた「伊勢本街道」も出てくる。伊勢奥津の街道、雲出川が素晴らしく、土の道も残っている(伊勢奥津のことは次号の『フライの雑誌』に書いた)。
さらに少し歩くと青梅街道と環状八号線が交差する四面道(しめんどう)にたどりつく。
『青梅街道』によると「四面道だが、土地っ子は“しめんと”という。(中略)井伏鱒二は“青梅街道のヘソ”という。車の渋滞で名高い喧騒の地である」そうだ。井伏鱒二は四面道の北(清水町一丁目)に住んでいた。井伏鱒二旧宅は十年くらい前に見に行ったことがある。
この四面道を環八に沿って中央線の線路方向に歩くと慈雲山光明院(通称・荻寺)があると『青梅街道』に記されていた。
《作家上林暁はこの寺近くの旅館に仕事部屋を構え、佳作「光明院の鐘の音」(昭和二十九年)などを書いた》
光明院に行ってみると線路のすぐそば。お寺の前を中央線(快速)が走る。光明院ガード(トンネルっぽい)を抜けると、北口から南口に抜けることができる。近くまでは来たことがあったのに、このガードは知らなかった。中央線の荻窪界隈、まだまだ知らないことだらけだ。
タウンセブンではまちの寿司(オリーブはまち?)、ザ・ガーデンで焼きさばの瓶詰などを買い、家に帰る。夜、仕事にとりかかるのも睡魔が……。
(追記)
井伏鱒二著『荻窪風土記』(新潮文庫)には「四面道は青梅街道のへそのようなもので、その常夜燈は荻窪八丁通りのトーテムのようなものであったろう」と記されている。
登録:
投稿 (Atom)