《私はいつのころからか、半遁世の心をときどき持つようになった。
宗教心なんてものとは何の関係もなく、ただ極力単純簡素な生活をしてみたい、という心からである》(「半遁世の志あれど」/山田風太郎著『風太郎の死ぬ話』角川春樹事務所)
同書の巻末の初出一覧を見ると「『問題小説』一九九一年」とある。日本が後に「バブル」と呼ぶ時代の最盛期もしくは崩壊直前のエッセイだ。
山田風太郎は一九二二年一月生まれだから六十九歳。蓼科に「風山房」と称する山荘を建てたのは四十歳前後だった。毎年七月半ばから九月半まで山に籠った。
「半遁世の志あれど」にはこんな記述もある。
《百閒先生は大貧乏時代、二、三年か新聞もとらなかったが、あとになってみると、それでも世の中に起ったことはちゃんと知っていたと書いているし、志賀直哉さんも若いころの漂泊時代、たしか尾道に住んでいたころ、飯を焚く鍋で顔を洗っていたが、別に不潔とは思わなかったと書いている。
そんな生活にあこがれたのである》
色川武大著『いずれ我が身も』(中公文庫)所収の「老人になる方法」には「私も十年ほど前に大病した経験があるが、あのとき、隠居ふうになっておけばよかった」という文章がある。
『街は気まぐれヘソまがり』(徳間書店)の「若老衰の男」を読んでいたら、色川武大と妻のこんな会話が出てきた。
《カミさんは病院を出ると、先に立ってコーヒーを呑もうといった。
「今日は気分がいいわ」
「気分がよくてよかったな。俺が先に死ぬということがわかって」
「そうねえ。でも寝ついて貰っちゃ困るのよ」
「いや、もう仕事は無理だ。これからは君にかわって働いて貰うことにする」
「冗談じゃないわよ。働くくらいならあたし死ぬわ」
「健康なんだから、ドシドシ働いてくれ。俺は隠居さ。一日じゅう寝る」》
色川武大も隠居に憧れていた作家である。他にも隠居の話を書いたエッセイが何本かある。晩年、岩手県の一関に引っ越したのは「隠居ふう」を実践したかったからかもしれない。
「隠居ふう」の生活を送りながら「隠居」や「遁世」という言葉がどこかしらに出てくるアンソロジーを作りたい。
(追記)
「半遁世の志あれど」は『死言状』(角川文庫)にも所収(ただし初出は載っていない)。
2020/05/28
深夜族
夜がつまらない。わたしは日付が変わる直前くらいの時間に飲みに出かけることが多い。行きつけの店の営業はまだ再開していない。再開したとしても深夜営業はまだ先だろう。ふだん何をしているのかわからない夜型の常連組はどうしているのか。
《私の仕事は、一種の座業だから、家に引っ込んでいることが多い。しかし、屋内に長く閉じこもっていると、どういうものか、意欲がだんだん鈍ってくる》(「ときどき素顔に返れ」/『一人のオフィス 単独者の思想』思潮社、一九六八年)
鮎川信夫は酒を飲まない。そのかわり深夜のレストランに出向く。コーヒーやオレンジジュースなどを注文し、店のすみっこで思いにふける。
《主要なテーマはいつも決まっている——「おれは自分の人生の大部分を、なにかしたくないことのために奪い取られているのではないか?」》
答えは出ない。出なくてもいい。多くの人が眠っている深夜の町に出かけ、無意味なことを考える。その時間が好きだと鮎川信夫はいう。
息抜きに出かける町は新宿だった。ほかの本のエッセイでも二四時間営業の喫茶店とサウナをよく利用するという話を書いている。
時評の合間に何てことのない日常を綴る。その日常の部分がなかったらわたしはくりかえしこの本を読むことはなかっただろう。
《私にとって、もっとも素顔にかえれる時間は、午前四時だ》
鮎川信夫は「深夜族」だった。朝型でも夜型でもない不規則な生活を送っていた。
わたしもなるべく不規則に生きたいとおもっている。今後も。
《私の仕事は、一種の座業だから、家に引っ込んでいることが多い。しかし、屋内に長く閉じこもっていると、どういうものか、意欲がだんだん鈍ってくる》(「ときどき素顔に返れ」/『一人のオフィス 単独者の思想』思潮社、一九六八年)
鮎川信夫は酒を飲まない。そのかわり深夜のレストランに出向く。コーヒーやオレンジジュースなどを注文し、店のすみっこで思いにふける。
《主要なテーマはいつも決まっている——「おれは自分の人生の大部分を、なにかしたくないことのために奪い取られているのではないか?」》
答えは出ない。出なくてもいい。多くの人が眠っている深夜の町に出かけ、無意味なことを考える。その時間が好きだと鮎川信夫はいう。
息抜きに出かける町は新宿だった。ほかの本のエッセイでも二四時間営業の喫茶店とサウナをよく利用するという話を書いている。
時評の合間に何てことのない日常を綴る。その日常の部分がなかったらわたしはくりかえしこの本を読むことはなかっただろう。
《私にとって、もっとも素顔にかえれる時間は、午前四時だ》
鮎川信夫は「深夜族」だった。朝型でも夜型でもない不規則な生活を送っていた。
わたしもなるべく不規則に生きたいとおもっている。今後も。
2020/05/26
古本屋のある町
サンカクヤマで河田拓也さんと待ち合わせ。喫茶店で色川武大関係の貴重な資料を見せてもらう。
この日『季刊銀花』一九九三年夏号「『當世日和下駄』で歩く東京の道」を買う。出久根達郎さんが「ムダを愛する町——高円寺」というエッセイを書いている。
《一九九三年現在、古本屋の数は二千七百軒ある。うち東京には七百八十軒。いわゆる古本街と称される神田神保町に百四十。早稲田に四十。本郷に三十店。いずれも概算である。ところが杉並区高円寺には、一ヶ所にまとまってはいないが、実に二十四店もの数が営業しているのである。更に貸本屋が四軒あり、新刊書店が十五軒ある。(中略)高円寺という町の特色をあげるなら、まず本屋が多いということであろう》
二十七年前の話だ。今はずいぶん減った(それでも残っているほうだが)。
同エッセイには飛鳥書房の竹岡昭さん、大石書店の大石功さん、球陽書房本店の西平守次さん、都丸書店の外丸茂雄さん、球陽書房分店の西平守良さん、青木書店の青木卓雄さん、大竹文庫(貸本屋)の大竹正春さん、そして芳雅堂書店の出久根さん自身の写真が載っている。
大石書店は昭和六年、都丸書店は昭和七年に開業。高円寺の銭湯の小杉湯が昭和八年である。
わたしが高円寺に移り住んだのは一九八九年の秋だが、都丸書店と飛鳥書房と竹岡書店によく通った(均一本ばかり買っていた)。出久根さんが書いているころの高円寺には漫画専門の古本屋も二軒あった。
一日おきに北口と南口の古本屋を回っていた。
当時、中古レコード屋レンタルビデオ屋古道具屋リサイクルショップなどでも古本を売っていた。それらを合せると九〇年代前半の高円寺には「古本が買える店」が三十軒くらいあった。
さらに西部古書会館もある。
部屋の掃除をしていたら山本夏彦著『やぶから棒』(新潮文庫)が出てきた。「古本屋のない町多し」というコラムがある。
《古本屋のない町は戦前はなかった。どんな田舎町にも一軒はあった。旅してその町の古本屋をさがすともなくさがしあて、棚を見るのは旅の楽しみの一つだった》
この日『季刊銀花』一九九三年夏号「『當世日和下駄』で歩く東京の道」を買う。出久根達郎さんが「ムダを愛する町——高円寺」というエッセイを書いている。
《一九九三年現在、古本屋の数は二千七百軒ある。うち東京には七百八十軒。いわゆる古本街と称される神田神保町に百四十。早稲田に四十。本郷に三十店。いずれも概算である。ところが杉並区高円寺には、一ヶ所にまとまってはいないが、実に二十四店もの数が営業しているのである。更に貸本屋が四軒あり、新刊書店が十五軒ある。(中略)高円寺という町の特色をあげるなら、まず本屋が多いということであろう》
二十七年前の話だ。今はずいぶん減った(それでも残っているほうだが)。
同エッセイには飛鳥書房の竹岡昭さん、大石書店の大石功さん、球陽書房本店の西平守次さん、都丸書店の外丸茂雄さん、球陽書房分店の西平守良さん、青木書店の青木卓雄さん、大竹文庫(貸本屋)の大竹正春さん、そして芳雅堂書店の出久根さん自身の写真が載っている。
大石書店は昭和六年、都丸書店は昭和七年に開業。高円寺の銭湯の小杉湯が昭和八年である。
わたしが高円寺に移り住んだのは一九八九年の秋だが、都丸書店と飛鳥書房と竹岡書店によく通った(均一本ばかり買っていた)。出久根さんが書いているころの高円寺には漫画専門の古本屋も二軒あった。
一日おきに北口と南口の古本屋を回っていた。
当時、中古レコード屋レンタルビデオ屋古道具屋リサイクルショップなどでも古本を売っていた。それらを合せると九〇年代前半の高円寺には「古本が買える店」が三十軒くらいあった。
さらに西部古書会館もある。
部屋の掃除をしていたら山本夏彦著『やぶから棒』(新潮文庫)が出てきた。「古本屋のない町多し」というコラムがある。
《古本屋のない町は戦前はなかった。どんな田舎町にも一軒はあった。旅してその町の古本屋をさがすともなくさがしあて、棚を見るのは旅の楽しみの一つだった》
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