日曜日、西部古書会館。『シンラ』(一九九七年二月号、新潮社)、中村鋭一著『愛釣記』(ぬ書房、一九七六年刊)を買う。『シンラ』の特集は「釣りがわかる100冊の本」。「映画にもなった釣り文学」ではノーマン・マクリーン著『マクリーンの川』(渡辺利雄訳、集英社)もとりあげられていた。
すこし前の『フライの雑誌』の堀内さんのブログ「あさ川日記」に「今さらタマゾン」と題したエッセイがあった。堀内さんのエッセイは読んでしばらくしてからおもいだして考えさせられることが多い。この文章もそうだった。
多摩川に外来魚が多いことからアマゾン川にかけて「タマゾン川」と呼ぶことにたいし、「多摩川のありようをからかうような、思慮の浅い呼称」と批判している。
さらに堀内さんは、在来魚、外来魚を分けるものは何か、誰が区別するのか——と問いかける。
もし堀内さんの文章を読んでなかったら「最近、多摩川のことをタマゾン川っていうらしいよ」と聞かされて、とくに何もおもわなかったかもしれない。いや、おもしろがっていたかもしれない。自分の性格からするとその可能性は高い。
また「外来魚」のことも、わたしはそう呼ばれる魚を有害だとする報道を信じていた。外国から来た獰猛な魚が、日本固有の魚を駆逐している。そんなふうにおもっている人はけっこういるはずだ。いまだにわたしもよくわかっていない。
それでも「外来魚」という言葉にたいして、以前よりは敏感になった気がする。
わたしのペンネームは「魚雷」で、たまに「雷魚」と誤植される。そのせいもあって勝手に親近感をもっている。子どものころ、「雷魚」は「害魚」の代表のようにいわれていた。「害魚」もひどい言葉だ。でも釣りに興味をもつまでは何ともおもってなかった。
知らないと考えることもできない。そのことを忘れないようにしたいが、すぐ忘れてしまう。