今年もあとすこし。仕事、終わったんだか終わってないんだが、すでに来年しめきりの原稿を書きはじめている。
くらもちふさこの『花に染む』の八巻を読んでいたら、近鉄の名古屋駅から宇治山田駅に向かうシーンがあった。近鉄の特急が漫画で描かれているのを見たのは、はじめてかもしれない(他にもあるのかなあ)。車内で食べているのは天むす弁当か。この巻には同じ花染町が舞台で登場人物が重なっている『駅から五分』も収録されている。昔からひとつの町に暮す人々が交錯する物語が好きだ。
世田谷ピンポンズさんが高円寺に来て、コクテイル、ペリカン時代をハシゴ。ヨコイタカヒロさんの展示を見る。今回はジャズをモチーフした墨絵なのだが、墨のにじみもふくめて、計算できる部分と計算できない部分が絶妙に混ざり合っているかんじがおもしろかった。
さらに飲んでいたら、ペリカン時代の増岡さんがヨコイさんの展示を見に来る。こういう日があると高円寺にいてよかったとおもう。
自分が選んだ町に住み、自分が選んだ仕事をする。自分の生き方を自分で決めたかった。それ以外のどんな生き方をしたとしても、うまくいかない自信があったからだ。
どの卵を買うかで悩むひまがあったら、とりあえず、卵を買って、それをどう料理するかで悩んだほうがいい。……という言葉が天啓のごとくひらめいた。今、酔っぱらっている。
2016/12/23
『神吉拓郎傑作選』トークイベント
『神吉拓郎傑作選』(国書刊行会)刊行記念トークイベント 大竹聡×荻原魚雷「神吉拓郎を語ろう!」開催。
◆出演:大竹聡、荻原魚雷
◆日時:2017年1月14日(土)
17:00〜18:30 (16:30開場)
※終演後、会場にて懇親会を予定しております。
◆会場:古本バル 月よみ堂
東京都杉並区西荻南2-6-4-103
TEL 03-6454-2037
Facebook:https://ja-jp.facebook.com/tsukiyomidou/
◆入場料:1500円(ワンドリンク付き)
2杯目以降はキャッシュオン形式でご利用いただけます。
◆定員:20席
◆予約方法:メールでのご予約をお願いいたします。
件名に「神吉拓郎トークイベント申込み」、
本文に「お名前」「人数」「電話番号」をお書きいただき
tsukiyomidou@gmail.comまでお送りください。
詳細は国書刊行会のホームページを参照してください。
http://www.kokusho.co.jp/news/2016/12/201612221538.html
わたしが神吉拓郎を知ったのは、色川武大のエッセイだったか、山口瞳のエッセイだったか。とにかく色川武大と山口瞳が褒めていた。読みはじめてすぐ夢中になった。最初に読んだのは『ブラックバス』(文春文庫)である。大人のほろ苦小説、さらっと書いているけど、すごく緻密。それから『男性諸君』(文春文庫)、『たたずまいの研究』(中公文庫)などのエッセイをひまさえあれば読み返すようになった。
二十代のころ(今もだが)、わたしはいろいろなことに無自覚で人間関係における失敗をくりかえしていた。神吉拓郎のエッセイは大人の男としての立振舞い、気づかいみたいものをさりげなく教えてくれる。
『神吉拓郎傑作選』の2巻「食と暮らし編」の「お洒落」もそうだった。
《一、相手の距離、部屋の広さなどによって、話し声の音量に、実に適当なコントロールが出来》
《一、百知ってることは、七十まで話し(百知っいるのに、三十までで留めるのは、相手に失礼である)》
《一、つねに表情を涼しく(または暖かく)保つようにつとめ》
《一、挨拶がわりに、太ったとかヤセたとか、顔色が悪いとかいわず》
《一、他人の趣味には極めて寛大で》
……といった「お洒落」の条件(まだまだたくさんある)をあげ、「もちろん私は全く失格である」と断っている。
神吉拓郎の短篇も涼しさと暖かさを保ちながら、百のうち七十くらいの加減でいつも書いている印象がある。
イベント当日はちょっと珍しい神吉拓郎の資料を持っていく予定である(忘れてなければ)。
◆出演:大竹聡、荻原魚雷
◆日時:2017年1月14日(土)
17:00〜18:30 (16:30開場)
※終演後、会場にて懇親会を予定しております。
◆会場:古本バル 月よみ堂
東京都杉並区西荻南2-6-4-103
TEL 03-6454-2037
Facebook:https://ja-jp.facebook.com/tsukiyomidou/
◆入場料:1500円(ワンドリンク付き)
2杯目以降はキャッシュオン形式でご利用いただけます。
◆定員:20席
◆予約方法:メールでのご予約をお願いいたします。
件名に「神吉拓郎トークイベント申込み」、
本文に「お名前」「人数」「電話番号」をお書きいただき
tsukiyomidou@gmail.comまでお送りください。
詳細は国書刊行会のホームページを参照してください。
http://www.kokusho.co.jp/news/2016/12/201612221538.html
わたしが神吉拓郎を知ったのは、色川武大のエッセイだったか、山口瞳のエッセイだったか。とにかく色川武大と山口瞳が褒めていた。読みはじめてすぐ夢中になった。最初に読んだのは『ブラックバス』(文春文庫)である。大人のほろ苦小説、さらっと書いているけど、すごく緻密。それから『男性諸君』(文春文庫)、『たたずまいの研究』(中公文庫)などのエッセイをひまさえあれば読み返すようになった。
二十代のころ(今もだが)、わたしはいろいろなことに無自覚で人間関係における失敗をくりかえしていた。神吉拓郎のエッセイは大人の男としての立振舞い、気づかいみたいものをさりげなく教えてくれる。
『神吉拓郎傑作選』の2巻「食と暮らし編」の「お洒落」もそうだった。
《一、相手の距離、部屋の広さなどによって、話し声の音量に、実に適当なコントロールが出来》
《一、百知ってることは、七十まで話し(百知っいるのに、三十までで留めるのは、相手に失礼である)》
《一、つねに表情を涼しく(または暖かく)保つようにつとめ》
《一、挨拶がわりに、太ったとかヤセたとか、顔色が悪いとかいわず》
《一、他人の趣味には極めて寛大で》
……といった「お洒落」の条件(まだまだたくさんある)をあげ、「もちろん私は全く失格である」と断っている。
神吉拓郎の短篇も涼しさと暖かさを保ちながら、百のうち七十くらいの加減でいつも書いている印象がある。
イベント当日はちょっと珍しい神吉拓郎の資料を持っていく予定である(忘れてなければ)。
2016/12/19
三つの「み」
一ト月ほど前、鮎川信夫のコラムを再読して、次の箇所を引用した。
《六〇年代のラジカリズムはエスタブリッシュメントに対する否定感情だけで成り立っていたにすぎない。野坂昭如流の言い方を借りれば、恨み・嫉み・僻みの三大動機をバネとして体制を攻撃したわけだ》
このブログを書いたあと、ひさしぶりに野坂昭如の雑文を読み返したいとおもっていたところ、野坂昭如著、坪内祐三編『俺の遺言 幻の「週刊文春」世紀末コラム』(文春文庫)が刊行された。わたしはコラムやエッセイは一気に読むのだが、この本はもったいなくて、外出したとき、電車と喫茶店で数十頁ずつ読んでいる。だからまだ読了していない。
野坂昭如の『週刊文春』でコラムを連載していた一九九〇年代後半、わたしは商業誌の仕事を干されて、社会どころか同時代にたいする関心を失っていた。野坂昭如の本は古本で七〇年〜八〇年代のものはちょくちょく買っていたのだが、九〇年代の文章はほとんど知らない。坪内さんの「編者解説」によれば、二〇〇二年の『文壇』まで「野坂さんは二〇世紀末にスランプがあった」とある。
《当節、見るもの聞くもの、すべてが怪態くそ悪い、年寄りのひがみ、そねみ、ねたみと判っているが、もともとぼくの雑文は、この三つの「み」が基本となっている、ほぼ同年代の、石原、開高、大江が小説家として脚光を浴びていた第一次安保の頃、ぼくは新宿文化演芸場で漫才をやっていた、ラジオ、TV、CMソング作詞にうんざりしての宗旨変え、三つの「み」は当然で、それは才能がないせいなのだが、やはり芥川、直木賞発表の時期、悪酔いする》(「連載三百回を機にふり返る、わが雑文遍歴」一九九五年十二月七日)
このコラムに続く「司馬さんは『国民作家』なんてありふれた存在ではなかった」(一九九六年二月二十九日)では、九四年六月、神吉拓郎、九四年七月、吉行淳之介、九五年八月、山口瞳、九六年一月、結城昌治、九六年二月、司馬遼太郎……と野坂昭如と同時代(やや年上)の作家の死について綴っている。
九〇年代半ば、戦中派の人たちの訃報が続いた。記憶が甦る。クロニクルと回想がいりまじる雑文らしい雑文だ。
《六〇年代のラジカリズムはエスタブリッシュメントに対する否定感情だけで成り立っていたにすぎない。野坂昭如流の言い方を借りれば、恨み・嫉み・僻みの三大動機をバネとして体制を攻撃したわけだ》
このブログを書いたあと、ひさしぶりに野坂昭如の雑文を読み返したいとおもっていたところ、野坂昭如著、坪内祐三編『俺の遺言 幻の「週刊文春」世紀末コラム』(文春文庫)が刊行された。わたしはコラムやエッセイは一気に読むのだが、この本はもったいなくて、外出したとき、電車と喫茶店で数十頁ずつ読んでいる。だからまだ読了していない。
野坂昭如の『週刊文春』でコラムを連載していた一九九〇年代後半、わたしは商業誌の仕事を干されて、社会どころか同時代にたいする関心を失っていた。野坂昭如の本は古本で七〇年〜八〇年代のものはちょくちょく買っていたのだが、九〇年代の文章はほとんど知らない。坪内さんの「編者解説」によれば、二〇〇二年の『文壇』まで「野坂さんは二〇世紀末にスランプがあった」とある。
《当節、見るもの聞くもの、すべてが怪態くそ悪い、年寄りのひがみ、そねみ、ねたみと判っているが、もともとぼくの雑文は、この三つの「み」が基本となっている、ほぼ同年代の、石原、開高、大江が小説家として脚光を浴びていた第一次安保の頃、ぼくは新宿文化演芸場で漫才をやっていた、ラジオ、TV、CMソング作詞にうんざりしての宗旨変え、三つの「み」は当然で、それは才能がないせいなのだが、やはり芥川、直木賞発表の時期、悪酔いする》(「連載三百回を機にふり返る、わが雑文遍歴」一九九五年十二月七日)
このコラムに続く「司馬さんは『国民作家』なんてありふれた存在ではなかった」(一九九六年二月二十九日)では、九四年六月、神吉拓郎、九四年七月、吉行淳之介、九五年八月、山口瞳、九六年一月、結城昌治、九六年二月、司馬遼太郎……と野坂昭如と同時代(やや年上)の作家の死について綴っている。
九〇年代半ば、戦中派の人たちの訃報が続いた。記憶が甦る。クロニクルと回想がいりまじる雑文らしい雑文だ。
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