2025/12/28

日の当たる道

 十年以上前に亡くなった編集者が夢に出てきた。どこかで酒を飲んで酔っ払って道を歩いていたら、何かの講演会の会場の前を通りかかり、「これ見ていこう」「知り合いがいる」と強引に入っていく。知り合いはいない。酔っ払い二人、居心地のわるいおもいをする。そんな夢。

 晴れの日一万歩(雨の日五千歩)と目標の歩数は定めているが、最初のころは一万歩(約七キロ)未満の日が多かった。

 夏は風の通りのいい道を歩き、冬はなるべく日当たりのいい道を歩く。夏に快適だった道が、冬だと寒い。寒風の向かい風はつらい。家に引き返したくなる。それでも二千歩から二千五百歩くらい歩くと体が温まってきて、もっと歩きたくなる。気分もよくなる。
 ウォーミングアップは、筋肉や関節を柔軟にするだけでなく、不安や緊張の緩和といった効果もある。散歩もそうだろう。

 地理に不慣れだったころは遠くおもえた場所が何度か歩いているうちに近く感じるようになる。頭の中の地図がちょっとずつ精密になっていく。とくに公園や区の施設の場所を覚えておくとトイレに行きたいときに助かる。

 久々に野方散歩。妙正寺川のでんでん橋を通る。北原通りの肉のハナマサで喜多方ラーメン(三袋入り。醤油)、肉のモモチで豚の細切れを買う。「ももももももち」という肉のモモチの歌が頭に残る。

 新青梅街道を西に向かい、デニーズ野方店のあたりで南に向かい、西武新宿線の踏切で電車を三本待ち。

 数年前まで高円寺の隣町の中野区大和町から野方にかけての道の名前をほとんど知らなかった。このあたり斜めの道が多く、方向感覚がおかしくなる。
 みつわ通りを通り、大和町中央通りを歩いて高円寺に帰る。

 妙正寺川の川北橋近くの更正教会のクリスマスツリーを見る。川北橋はしょっちゅう渡っているのだが、クリスマスの時期の夜間に更正教会の近くを歩いたのは、はじめてかもしれない。川北橋の北側の端のあたりから東京スカイツリーの先端が見える。

 妙正寺川沿いは小さな公園がたくさんある。

2025/12/25

水分補給

 新型コロナ禍で騒然としていたころの冬の記憶が薄れてきている。五年前のブログを読むと、今と同じで西部古書会館に行って街道の図録を買っている。都丸書店(本店)の閉店も五年前か。当時五十一歳。ずいぶん前のようにもおもえるし、最近のようにもおもう。

 五十歳前後、体と思考がチグハグになっていた。気持に体がついていかない。だったら体に気持を合わせればいい。老年期の入口は体を優先しすぎるくらいでちょうどいいのかもしれない。

 十二月二十日(土)、二十一日(日)、西部古書会館の均一まつり(初日二百円、二日目百円)。
 古書会館の初日二十日(土)は図録のみ。金の箔押しの『武者小路実篤記念館』(一九八五年)をはじめて見る。頁のあいだにチラシと実篤の絵葉書が三枚挟まっていた。絵葉書の一枚「君は君 我は我也 されど仲よき」は実篤八十一歳の作品。ほかには『九州北部三県文化交流展 異国文化の導入 長崎・横浜・東京風物誌』(長崎県立美術博物館、一九九六年)、『漱石「白樺」近代俳句』(東京都近代文学博物館、一九九七年)、『三鷹市 山本有三記念館』(三鷹市芸術文化振興財団、一九九六年)など。

 二十一日(日)は昼すぎ、初日に手に取らなかった雑誌をいろいろ見る。『walk[ウォーク]vol.4』特集「自然をつないで東京あるき」(二〇〇四年Spring/Summer、山と溪谷社)、『伊勢人』特集「橋本平八と北園克衛 兄弟の原風景をゆく」(二〇一〇年八月号、伊勢文化舎)など。『walk[ウォーク]vol.4』は『山と溪谷』の別冊。同誌の「水分補給のコツ」という記事に「成人は、体重の60%が水分だが、お年寄りは50%くらいに落ちているので、水分を失いやすい」とある。さらに「喉が渇くという感覚」も鈍ってくるとも……。お年寄りの話だけど、わたしも喉の渇きが鈍くなった。これからは自分をお年寄りとおもって生きることにする。

 中年以降、水分補給の大切さを痛感している。下手すれば命に関わることもある。冬も油断できない。

『伊勢人』の特集よかった。橋本、北園は伊勢の朝熊町(当時は朝熊村)の出身。朝熊は「あさま」と読む。朝熊岳道の岳参りのハイキングコースの地図も載っている。朝熊山は登ったことはない。朝熊山上広苑に足湯がある。行きたくなる。

 この世にいる間、楽しく歩ける体を維持したい。

2025/12/19

第三の新人(二)

 十二月十七日(水)、十八日(木)、二日連続、東高円寺散歩。青梅街道はまだイチョウの葉が残っている。葉が散りやすいイチョウ、散りにくいイチョウがあるのだろうか。

 高円寺図書館——週によっては木曜日が休館日のこともある。すぎはち公園を歩いて蚕糸の森公園、梅里公園、セシオン杉並などを回る。セシオン杉並は三階の窓から西のほうの山がよく見える。

『群像』(一九六四年三月号)の座談会「第三の新人」(山本健吉、梅崎春生、小島信夫)の続き。

 小島信夫の「卑下していい社会的地位じやない」という言葉が引っかかった。

 小島信夫は一九一五年二月生まれ。この『群像』の座談会のときの年齢は四十九歳。小島も「第三の新人」の作家だが、第一次戦後派の梅崎春生と同年同月生まれである。

 安岡章太郎は一九二〇年四月(戸籍上は五月)、遠藤周作は一九二三年三月、吉行淳之介は一九二四年四月生まれ。
 芥川賞受賞は安岡が一九五三年、吉行が一九五四年、遠藤が一九五五年——座談会のころ、だいたい十年選手である。

 年齢もそうだが、作家としての地位を確立していくうちに「自分を道化にする」ような「卑下自慢」がきつくなる。
 いっぽう自分のだめさ、弱さに滑稽味を加えて表現するのは、文芸の伝統ともいえる。弱音、愚痴を軽妙に読ませる。そこに文章技術の粋がある。

 吉行淳之介著『ぼくふう人生ノート』(集英社文庫、一九七九年。単行本はいんなあとりっぷ社、一九七五年)に「恥」というエッセイがある。

《十代後半、私は劣等感の塊になっていた。当時、時代は軍国主義一色に塗り籠められていたので、いわゆる「芸術」の分野は蓋をされていた、といってよい》

《とにかく、何をやっても駄目だった。当時自分ではまだ気付いていなかったいくつかの特質は、どの社会分野にも不適合だった》

 吉行淳之介が五十歳のときのエッセイだ。

 すでに文壇において「大家」となりつつあった吉行淳之介は、それでも「若い頃の劣等感とほとんど同じ性質の劣等感を持つことがしばしばある」と書いている。

《この感情は、私が物を書き続ける限り、私の背後で影になってつき纏うだろう。その劣等感が私の中で消失するときは、私が物書きでなくなったときであろう》

 小島信夫の座談会で安岡章太郎が「芥川賞をもらうまでのことでないとどうもうまく書けない」とこぼしていたことにたいし、山本健吉は「そういう点でマンネリズムが出ていますね」と評している。
 同じ題材をくりかえし書いているとどうしても鮮度が落ちる。わたしは同じ話ばかり書く作家が好きだし、自分もその傾向がある。

 この日の深夜、近所をちょこっと歩いて家に帰ったら万歩計の数字が一万歩ぴったりだった。万歩計歴十七年で初である。

 (了) 

(追記)小島信夫は梅崎春生より年上と書いてしまった。二人とも一九一五年二月生まれ。梅崎春生のほうが二週間くらい早い。訂正した。