雪の日、ほとんど家にこもって、年末できなかった掃除をしていた。紙袋やダンボールに入った新聞、雑誌などの切り抜きやコピーをどうするかで悩む。きちんとファイルしないと、必要なときに見つけることができない。増えれば増えるほど、探すのも困難になる。
資料整理は諦めの連続で気が滅入るが、これも仕事のうちとおもうことにする。
気分転換のため、高円寺北口を散歩する。いくつか家の前で雪だるまを見つけた。その翌日、夕方、スーパーがむちゃくちゃ混んでいた。雪と連休が重なったせいか。
来月発売の『本の雑誌』の連載で夏葉社と幻戯書房の上林曉の本をとりあげた。
原稿には書かなかったが、今、上林曉の『草餅』(筑摩書房)を読み返している。不自由な左手で扉の題字を書いている。
「木山君の死」という随筆に昔の高円寺の話が出てくる。
木山捷平は満洲に行く前に高円寺駅のちかくに住んでいた。荻窪在住の上林曉は高円寺の公益質屋に寄って、木山を誘い、煮込み屋で酒を飲んだり、将棋を指したりした。そんな回想を綴っている。
上林曉も木山捷平も作家としてはかなり苦労人なのだが、昭和の中央線文士の交遊には憧れる。
木山捷平の田舎は岡山県の笠岡で、近くに住む写真家の藤井豊さんの案内で生家を訪れたことがある。
まさに田園風景というべきかんじのところだったが、後日、やはり郷里が木山捷平の生家のちかくの河田拓也さんから「あのあたりは街道筋で昔は栄えていたんですよ」と教えてもらった。
木山捷平の家は祖父も父も百姓だった。木山捷平は貧乏話をよく書いていたから、それほど裕福な家の生まれではないとおもっていた。しかし、当時、地方在住者が子どもを東京の大学まで行かせるというのは、かなり恵まれた家なのかもしれない。
そのあたりの感覚が本を読んでいるだけは掴みきれない。
中央線文士たちの電車で二駅くらいの距離の友人の家を歩いて訪ね、そのまま酒を飲んで、将棋をするという暮らしぶりはすごく贅沢な気がしてしかたがない。
(追記)
後日、河田さんから再び説明があって、木山捷平の生家と街道はちょっと離れていて、木山家の周辺はそれほど栄えてなかったとのこと。わたしの勘違いだった。