今月からWEB本の雑誌で「日常学事始」という連載をすることになりました。
http://www.webdoku.jp/column/gyorai/
更新頻度は月二回くらいでしょうか。
タイトルの「日常学」という言葉はアンディ・ルーニーの『日常学のすすめ』(井上一馬訳、晶文社、一九八四年刊)からとりました。
アンディ・ルーニーはライター生活で行き詰まっていたときに読んで、今の自分の「日常」から、大きなことから小さなことまで何でも切り取れる——ということに気づかせてくれたコラムニストです。
それはさておき、ちょっとしたこと——たとえば、田舎から上京して中央線沿線で暮らすようになって、国立という市や駅名の由来が、国分寺と立川のあいだにあるからだと教えてもらったとき、意表をつかれたというか、なぜ気づかなかったんだろうとおもったことがありました。
ほかにも「ユーラシア」という言葉が、ヨーロッパとアジアを合わせた造語と知ったのも、たぶん二十歳すぎてからです。
以前、友人が「なあ、大豆と枝豆ともやしが同じだって知ってたか」と興奮気味に話していたこともありました。当時、友人は三十代半ばくらいだったとおもいます。人によっては子どものころから知っていることでも、知らずに大人になることはよくあります。
日常生活においても、知っている人にとっては当たり前すぎて「今さらかよ」とおもうことでも、知らない人は知りません。
ナンシー関のコラムで、青森から上京してひとり暮らしをするようになって、カレーが腐ることをはじめて知ったという話がありますが、家を出て自分で生活してみないと気づかないこと、あるいは失敗してはじめてわかることって、けっこうあるとおもいます。初歩とか基本とかいわれても、その手前の手前くらいのレベルからわからないこともよくあります。
どこまでが「日常」でどこからが「非日常」なのか。
そのときどきの気分で「日常」の範囲が広がったり狭まったりするかもしれませんが、そのへんのことはあまり厳密に考えずにいきたいとおもっています。
最近、『日常学のすすめ』以外にも『鈴木健二の頭のいい“日常学” 「進歩向上」のヒント』(三笠書房、一九八九年刊)という本があることを知りました。
ぜひとも読まねば……。